まさかの話 『ヒカルの碁』

 レンタルビデオのアニメで、また、中古本のコミックスで、私は『ヒカルの碁』を見て知っています。特に、その第一巻はアニメでもコミックスでも衝撃的でした。どう見ても普通の小学6年生の主人公進藤ヒカルの心に、平安時代の天才棋士だった藤原佐為の霊がよみがえったという、尋常ならざる物語で始まります。にもかかわらず、その佐為がかっこよくって、しかも面白いため、つい引き込まれてしまう物語の展開となります。この佐為こそ、『ヒカルの碁』になくてはならない登場人物と言えましょう。(いちおう、主人公のヒカルにしか見えない幽霊ですが…。)
 しかも、私は塔矢アキラ少年が大好きです。特に髪型が好きです。彼は男の子ですが、私はこんな少年のお父さんだったらいいのになあ、と思います。でも、塔矢名人のようにあんまり真面目に真っ直ぐに育てると、後でグレて恐いことになるかもしれません。
 そこで、まさかの話をしたいと思います。私の勘違いか、気のせいに違いないとは思います。ですが、今までずっと気になっていたことが私にはありました。
 塔矢アキラ少年は、同じ小学六年のヒカルにライバル心を燃やします。彼は勿論、佐為のことを知りません。ヒカルと囲碁で対戦して、勝負に負けて、その得体の知れない力に愕然としてしまいます。その結果、ヒカル以外の誰とも碁を打ちたがらなくなるシーンがあります。私は、アキラ少年がヒカルに『恋をしている』のではないかと思いました。同じ年の少年同士なので、それは男女の恋愛とは違います。でも、ライバルとして相手を求める心は、恋する相手を求める気持ちとどれほど違うものでしょうか。ひょっとして、ほとんど同じものではないでしょうか。
 私の妄想は、ここまでにしておきましょう。しかし、全く根拠がない話ではないと思います。フランス文学の『赤と黒』で作者のスタンダールは、男女の恋愛関係を描きながら、人間の情熱の美しさを表現しました。同様に、『ヒカルの碁』は、囲碁を通じての、人間の情熱の美しさを表現しています。このアニメやコミックスを見て、囲碁のプロ棋士を目指した人は少なくありません。この劇中の、囲碁に対する情熱の美しさに感動したことがその始まりではなかったでしょうか。
 それまで日本では、囲碁に対する人気はイマイチでした。将棋よりも勝負に時間がかかるし、青少年がやるには目に負担がかかります。そのわりには、どこの家にも碁盤と碁石はありました。簡単なルールでできる五目並べは誰でもできましたが、囲碁の打ち方を知っている人は減る一方でした。私は、中学一年の頃、学校に将棋部が無かったので囲碁部に入っていました。けれども、囲碁をわかりやすく教えてくれる人がいなかったので、その面白さがわからないうちに一年でやめてしまいました。囲碁部員の中には『コンピューター』というあだ名が付くような正確な手を打つ人がいました。が、部員はみな当たり前のように打つだけで、姿勢や行儀は良くなるものの、それだけでは囲碁を打つ動機づけが弱過ぎました。例えば、韓国や中国のように囲碁を『頭脳のスポーツ』としてとことん研究する態度は、少なくとも彼らには見られませんでした。
 私の家にも、碁盤と碁石はありましたが、祖父も父も囲碁を打てませんでした。祖父がその碁盤と碁石を買ったことは事実でしたが、それは別に目的がありました。祖父は、それを家に置いておくことによって、黒田の家の格を上げようとしたのです。それは、ただの見栄っ張りに過ぎませんでした。
 しかしながら、『ヒカルの碁』が広く知られて、世間一般の考えは変わりました。『ヒカルの碁』のアニメがテレビで放映されていた時に、私は一度、市ヶ谷にある日本棋院に行ったことがあります。子供連れのお母さんたちが沢山来ていました。テレビのアニメを見た子供たちが囲碁に興味を持って、お母さんに連れてきてもらっていたのです。その折に、私は売店碁石に色を塗ったおはじきや、(碁を打つ相手もいないのに)九路盤と十三路盤を買いました。
 佐為にしても、塔矢名人にしても、その息子の塔矢アキラにしても、囲碁に対する一途な思いや情熱には並々ならぬものがあります。私たち視聴者(読者)は、彼らのただならぬ努力と精神力を感じて、自ら進んで囲碁を打ちたい、この道のプロになりたいという気持ちを主人公の進藤ヒカルと共有することになります。もしも、私が中学一年の時にこのマンガを見ていたら、決して囲碁部をやめることはなかったと思います。