たとえ売れなくても…

 今回の記事を書くにあたって、きっかけがあったことを最初に述べておきたいと思います。それは次のようなことでした。昨日私は、仕事場のビニール・ハウスに向かう途中で、残念な物事を目にしました。軽トラを運転中の私が見かけたところでは、アスファルトの車道のわきにレタスが5、6個ほど転がっていました。その幾つかは、包まれていた新聞紙から飛び出していました。その一部分が傷んで茶色くなっていました。
 新聞紙に包まれていたところを見ると、おそらくもらい物だったようです。ところで最近直売所へ行くと、大量のレタスや白菜が並べられているのを目撃しました。私の地元では、おそらく今がそれらの野菜の出荷最盛期の一つに当たるのではないかと推測できました。となると、余った農産物を生産者が知り合いもしくは他人に譲るという現象が起きてきます。おそらくそのレタスを受取った側の人は、そのレタスの一部分が傷んで茶色くなっているのを見つけて、イヤになってそれに気づいたその場で放り投げたのかもしれません。
 以上が、道端に放置されたその哀れなレタスを見た私の推測です。本当は、そうではないかもしれません。しかし、私は、仮りの話として、そのようなこともあり得ると考えました。それを前提として、以下のことを私は考えました。
 私は、道端に放り出されたレタスを見て、もったいないとか、良くないとか主張するつもりではありません。なぜなら、そのレタスは傷んでいて食べられなかったのですから、それを無理して食べて体調を悪くすることのほうが心配です。また、もらい物とはいえせっかく食べようとした物が傷んでいたり腐っていたら、がっかりしたり頭にくるのは人間として当たり前の感情だからです。
 そんな私が一番に残念に思ったことは、レタスが捨てられた場所です。その行為に、人としてのモラルが無い、と言う前に大切なことがあるのです。それを私は主張したいと思います。
 私のレタスの出荷は、すでに一週間前に終わっています。今年は周知のとおりいろいろなことがあって、生産物の売れ行きが良くなくて、たとえ売れても売上げ金額があげらない結果に終わったりすることが多いようです。それでも売れるだけいいほうで、売れずにダメになってしまう農産物も少なくはありません。私の場合も、せっかく直売所に並べても、その日のうちに売れなかったレタスは引き取らざるおえませんでした。そうしないと、直売所の側で廃棄処分をして、生産者はその手数料を取られてしまうからです。
 私は、傷んで出荷できなかったものや、直売所から引き取ったものをどう処分するかを、この仕事を始めた頃から決めていて今でもそれを続けています。まず、食べても害の無いものは自己消費します。でも、その消費を上回る量がある場合は、例外なく土に埋めることにしています。土に埋めないと、こうした有機物は必ず腐ってしまい、異臭を放ちます。ハエなどの小さな虫が沢山たかってしまいます。カビや細菌も繁殖して、衛生上よくありません。
 できればそうなって食べられなくならないうちに(悪くなって食べられなくなってしまった場合でも同じですが)、ビニール・ハウス内の、できれば端っこにスコップなどで穴を掘って、そこへ放り投げて、土をかぶせます。「悪いけど、申しわけない。」と心の中で手を合わせて念じつつ、売れなかったものを土の中に埋めるのです。そうすることで、ほとんど全ての有機物は土に返ります。土から産まれたものが土に返ることは、まったく自然なことのように思えます。私はそれを『有機物のリサイクル』と呼んでいます。それは、いつかまた別の植物になって生まれかわります。その役割と能力を、農地そして土はこれから先も継続していきます。
 よくキャベツが畑でできすぎると、トラクターでつぶすことがあります。キャベツができすぎると供給過多のため、キャベツの市場価格が暴落します。それを市場などへ出荷すると、農家さんは採算がとれなくなって赤字になってしまいます。そこで、手間ひまかけて作ったキャベツを農家さん自らがトラクターでつぶします。私たちは、テレビや新聞でそのニュースを知って「もったいない。」と思います。しかし、『有機物のリサイクル』という考え方からすると、土から産まれたものは土に返って無駄にはならないはずです。農家さんにとってその時お金にならなくて多少損でも、それが土の肥料になって、将来またキャベツやほかの野菜が作れます。
 しかし、アスファルトでできた車道の上では、そのような結果にはなりません。時間の経過と共に腐食し、小さな虫がたかって、異臭を放つだけです。誰かがそれを気づいて片付けるまで、もしくは、台風などの嵐で吹き飛ばされるまで、それはそのまま人間の目線では、邪魔なゴミに過ぎないのです。したがって、それは公衆衛生の面でも、環境面でもマイナスなのです。