食事のズボラな調理方法に共感

 最近、『花のズボラ飯』というコミックとか、『ズボラ人間の料理術超入門』という料理本があることを知りました。40代前までの私は、サラリーマンで自宅から通っていたこともあって、ほとんど料理をしたことがありませんでした。毎週日曜日のお昼に、用意された肉と野菜で即席ラーメンを作る程度でした。ほとんど毎日、母親の作った食事を食べていました。
 私の母は、栄養バランスを一番に考えて作ってくるので、いつも美味しくありません。私は、40代を過ぎて、母から煮魚などの味付けの仕方を実地で学びました。まともな味付けをしているのですが、どうも美味しくないのです。母は、基本的に料理が下手なのだと、私は思いました。
 私が子供だったある日、母が「今晩は、スパゲティにするね。」と言うので、期待していました。母は、当時人気商品になっていたスパゲティ・ナポリタンの即席袋めんを買ってきて、ゆでた生めんをフライパンに移して、めんに付属のナポリタン・ソースを加えて、混ぜながら炒めていました。さあ完成したかなと思って居間でみんな待っていたのですが、なかなか持ってきてくれません。台所に行ってみると、母はまだ調理中でした。母に聞いたところ「たんぱく質が足りないから。」という理由で、完成直前のスパゲティの上に生卵を落として、かき混ぜ続けていたのです。
 運良くスパゲティ・カルボナーラの味になれば良かったのですが、実際はひどいものでした。「お母さん、スパゲティ(ナポリタン)の味がしないよ。」とみんな口々に言いました。最後に混ぜた卵のせいで、ナポリタン・ソースの味が消えてしまいました。私の父などは、もともと濃い味が好きなものですから、これじゃあ食べられないと言って濃いソースの瓶を取って、スパゲティの上にドボドボかけて食べていました。
 私は、その、味のよくわからなかったスパゲティのことを、時々思い出します。それは、ただ味が薄いというものではありませんでした。卵とめんとソースの混ざり方が悪くて、本当にまずい味がしたのです。どうしたらよかったのか。母は考えようとしませんでしたが、代わりに私が考えてみました。卵は別に調理するべきだったと思います。玉子焼きとして、薄くのばして焼いて、軽く塩をふっておき、細かく千切りにしてトッピングする。もしくは、目玉焼きにして、トッピングする。そのほうが、ナポリタンの味が消えなかったと思います。
 私は、母の料理の仕方がズボラだと言いたいのではありません。むしろ逆だと思います。家族のことを考えて、余計な手間をかけてしまい、失敗につながっているように思えるのです。母の料理が下手なおかげで、幸か不幸か、私は食べ物の好き嫌いがなくなりました。毎回食事が美味しくないので、どんな食事が出ても我慢して食べる習慣が身につきました。そのうち食べられなくなる物がなくなりました。
 私の母は、子供の頃に鼻を悪くして、鼻が利かないそうです。臭いの見分けがつかないそうです。作る料理がまずい原因はそのせいだと、母自身が言っています。それではどうしようもありません。でも、食べる側としては困ります。私は、年末年始に自宅に帰りますが、必ず食事の調理の手伝いをします。そうしないと、安心して食事を頂けないからです。
 それはさておき、私はどうかというと、食事の調理に時間をかけることには否定的です。過去に時間をかけて、自分で食べるものを作った経験はあります。しかし、時間をかければかけるほど、理にかなった食事ができるというわけではない、ということに気がつきました。
 例えば、収穫したトマトが大量に売れ残って、自己消費をすることになりました。夏場でそのままにしておくと、大量に腐って食べられなくなってしまいます。そこで、トマトを包丁で切って、ジューサーにかけて、トマトジュースにしました。その絞りカスが大量に残るので、大きめの鍋に入れて、煮込みます。半日くらいかけて、加熱して水分を飛ばすことによりトマト・ピュレーを作りました。ここまでやると、美味しいかまずいかを考えること自体が無意味に感じられました。調理の楽しみよりも、食べ物を片付ける必要と義務感に追われてしまいました。
 また、一人でお好み焼きやもんじゃを始めてしまうと、水で溶いた小麦粉を焼く時間が意外とかかります。焼いている途中で腹が減って、すでに出来上がったものに手をつけて食べてしまいます。次を焼きながら、出来上がりを食べることの繰り返しになります。つまり、私は、食べながら調理して、調理がおわると同時に食べ終わってしまいます。だらだら食事をとってしまうので、ほかのことができなくなってしまい、あまり良くない方法でした。
 現在私が、一番理にかなっていると思っているのは、『速くて、安くて、美味しい』調理もしくは食事の方法です。私は、国道19号線沿いの何軒かの牛丼チェーン店にたまに食べに行くごとに、そのためのヒントを得ています。『速くて、安くて、美味しい』調理もしくは食事のために、ズボラでいいのではないかと思います。せっかく自分で手間ひまかけてもそれなりの効果がなければ、がっかりするだけだ、と一人の私は考えます。
 一人で食事を作って食べることは、自己満足に陥ってしまっていると、一般的には考えられています。『花のズボラ飯』のコミックの絵を見ても、多分にそれはあるとは思います。しかし、家族や相手のために手間ひまかけて作っている食事が、必ずしも客観的に見ていつも美味しいとはかぎらないのではないか、と私は考えています。食事を作ってもらった相手が、本当は美味しくないのに「美味しいよ。」とウソをついている場合だってあると思います。相手を傷つけたくないために、我慢してのウソですから、良いことだとは思います。要は、食事を食べさせる側の思い込みが、まったく無いとは言えません。
 私の場合は、お米がとれるようになってから、ご飯をメインにすることを考えるようになりました。もちろん、安い乾麺を利用して、麺類をメインにするコースもありますが、現在はご飯のほうが口に入りやすいので、前者を考えてみました。ご飯は、炊飯器で炊いてありさえすれば、いつでも簡単に食べられます。また、冷めても、おにぎりにしたり、フライパンで炒めて焼き飯にしたり、熱湯をかけてお茶漬けにしたり、鍋で水煮しておかゆにして食べられます。おかずに手間をかけさえしなければ、何の問題もありません。
 私の場合、例えば、豚肉の切り身やこま切れを買ってきても、そのままフライパンで焼いてご飯にのせて、塩や醤油やトマトケチャップをかけてそのまま食べてしまうことが多いです。調理は最小限で済ませてしまいます。肉だけでなく、卵や魚でも同じです。また、みそ・梅干・キムチ・ふりかけ・豆腐・納豆・なめたけ・海苔・魚の缶詰などなどを用意しています。食べたい時に、すぐ簡単に食べることができて困りません。味噌汁が食べたかったら、コーヒーカップに味噌を入れて、熱湯を注ぐだけです。胃腸に良いように、食後のデザートにヨーグルトやチーズをなるべくならば食べるようにしています。
 私は中学と高校で、京都に修学旅行に行っています。京都で食事をしたところ、全体的に食べ物が薄味で美味しかったことを覚えています。近年私が調理して食べてみて味が濃いことがあると、残さず食べはするものの、調理に失敗したかなと思うことが多いです。私は、基本的には薄味が好きなのだと思います。
 20代の頃、関西のM重工のロボット・アームの仕事で現地調整に行った時、半年ほど現地に滞在しました。その時、元K紡績の社員寮だったところが民宿になっていて、月ごとに部屋の借り賃を払って、そこを利用していました。お風呂やトイレが共用だったのを憶えています。朝食と夕食は一階の広間の食堂にあって、食事の時間が決まっていました。特に、朝食は毎日同じものが食卓に並んでいました。いくつかの大きなどんぶりに梅干や漬物や佃煮が山ほど入っていました。あと、焼き海苔と生卵と納豆(関西なのに…。)が毎日必ず置いてありました。あとは味噌汁とご飯が用意されていただけでしたが、それで十分だったと思います。そのことを今思い出してみると、そんなに凝った料理でなくても、ちゃんと栄養バランスがとれた食事になっていて参考になります。
 このように、調理に余り手間をかけないで、なるべく安く、簡単に、味はそこそこ良くて、でも、栄養バランスの偏りが少ないようにして食事をとるのが、私なりのズボラなやり方なのです。