私のプロフィール 十代の頃の素顔

 季節がら、懺悔のようになってしまうかもしれませんが、繰り返すようですが私はクリスチャンではありません。私の実家は、日本で世間一般に多いとされる浄土真宗で、葬式や墓参りで都内のお寺さんにお世話になっています。
 このブログを過去に読んだ人からすれば、私はかなり『出来た人間』のように見えるかもしれません。若い頃の私の話からも、うらやましいような青春時代を送ったかのようにイメージされたかもしれません。しかし、そのように一面的にとられてしまうことには、恥ずかしさを感じてしまいます。なぜなら、誰でもそうだと思いますが、生まれつき『出来た人間』など、この世には一人もいないからです。「天から(初めから)和尚には成れない。」とか、「ローマは一日にしてならず。」とか、諺で言われるとおりだと思います。
 私だって、十代の頃は、さすがに人前で言えないような、失敗をやらかしたり、他人に迷惑なことをしてしまったりしたことがあります。そして、そんな最低な自分自身をイヤになったことだっていくらでもあります。幸いなことに、例えば他人を凶器で傷つけたりするような大きな事件を起こさなかったので、今まで無事に暮して来れました。が、若い十代の頃の不安定な精神状態を思い出してみると、果たしてあんな人間でよかったのかな、と思うこともあります。大人の目と心で、若い自分自身を振り返れば、青春時代は美しい思い出であるかもしれません。しかし、もう少し自らの本心に踏み込んでみれば、かなわなかった苦い思い出もあり、最悪大人になってもその思い出を引きずっていることもあるのです。
 正直言って、十代の私は、人前に出せるものでも見せられるものでもなく、ひどいものでした。性格が不安定で、しかも宮本武蔵みたいで、周りの人間と突然衝突することもありました。親に反抗しないように見せて、親の言うことを聞いていないこともありました。そんな感じだったので、私の場合は、社会に出るのが遅くて良かったと思います。
 一般的に見て、十代の頃というのは、思春期があり反抗期があり、まともな人間になれと周りがどんなに強制しても、どうにもコントロールできないことも多い時期です。それは仕方が無いことで、周りの大人の言うことがすべてプレッシャーに思えてきます。でも、それが大人になるための準備期間で必要なことであり、避けて通ってはいけないことなのです。そうした経験をいっさいせずに大人になると、ろくな人間になれません。
 私などは二十歳を過ぎても、なお、ひどかったと思います。でも、誰も私の気持ちをくんで助けてはくれませんでしたから、結局自分自身で判断するしかありませんでした。親や会社の上司は、何で相談してくれなかったのか、後になってから私に聞き返してきました。けれども、私は黙るしかありませんでした。彼らの考え方が、私にはどうしても受け入れられなかったからです。では、同僚はどうかというと、彼らは彼ら自身のことで精一杯で、私の悩みにほくそえむだけで、同情さえしてくれませんでした。私を仕事のライバルとしては認めても、協力者として見てくれる余裕はありませんでした。私のサラリーマン生活は、仕事に専念し、職人のように腕を磨くしか道がありませんでした。でも、どうしても、会社の外の世界に心が向いてしまい、現在に至っています。
 私の考えとしては、十代の頃の私の素顔は素顔でいいと思いました。例え恥ずかしい素顔であっても仕方が無いと思いました。ただ、自己主張が少なかったことは、反省しています。本当に思っていることを人前ではっきり言えない、というのが私と年齢の近い人たちの共通の特徴です。ですから、私は年齢の近い女性とはお互いに遠慮し合ってしまい、絶対に恋愛関係には発展しません。昔からずっとそうなのです。
 本当言うと、そうした私の欠点を補ってくれる人が、私には必要なのかもしれません。