私のプロフィール 物理の授業がわからなくなる

 高校二年の時、私は物理の授業がわからなくなりました。物理学といえば、数学と並んで自然科学の一分野として重要な科目です。何処でわからなくなったかを示しましょう。そうすれば、私の挫折に共感する人も多いのではと思います。今のご時世、高二の頃の私と同じ不安を感じている日本人が多いようにも思えます。
 それは、ある日の物理の授業のことでした。空間を移動する物体の速度と距離の関係をグラフにする実験が行われていました。平らな床を転がる物体の移動距離を実際に測って、グラフに点で印をつけていきます。点と点を結ぶと明らかに折れ線になるにもかかわらず、物理の先生はそれぞれの点の間をとって直線を引いて、物体が等速度運動をしていることをその直線で示しました。私たち生徒の側は、「はい、そうですか。これが等速度運動ですか。わかりました。」といった感じで、何の疑問も無く、まるでものわかりの良いロボットのように等速度運動の物理的法則を受け入れざるおえませんでした。そうしないと、授業の進行を妨害していると思われたり、定期試験で良い点を取れないからでした。
 しかしながら、私はどうしてもこの一連の手続きに不安を抱かずにおれませんでした。あらかじめ、物理の先生は「(このように実際に実験してみると、)測定値には必ず誤差が出るものだよ。」とことわっていました。だから、生徒はみんな(私も含めて)、これ以上疑問を持たずにこのことを了解してしまったのだと思います。
 しかし、よく考えてみれば、その誤差はどれだけの大きさのものなのか。その振れ幅はどれくらいのものなのか。普通の人間の考えとしては、わからないことだらけで不安になるばかりです。どこからどこまでが許容範囲なのかを知らずに、その測定値から誤差を無視して、グラフ上の直線を導き出すのは余りに論理的に飛躍がありすぎるのではないでしょうか。だから、その時に物理の先生に、もっと疑問をぶつけて、現実とのギャップを埋めるべきではなかったのではないでしょうか。
 物理の先生からすれば、物体の等速度運動を生徒たちに説明したいだけだったはずです。その法則の説明が、彼の教師としての職務であり、目の前の実測値や誤差の数字がどうのということは二の次であることは明らかでした。ただし、数字自体は、誰が見ても正確で客観的なデータだと、その先生も大人として疑わなかったはずです。
 このようなことがあって、私は物理の授業ががわからなくなりました。興味がわかず、当たり前の法則も頭に入りませんでした。物理の授業で何を勉強したらいいか、何を信じたらいいのか、この時からわからなくなりました。試験の成績も物理だけは悪くなりました。理系離れ、と言うよりも、理系の知識への不信感や不安感が、十代の若い私の心に巣食い始めました。
 理系嫌いとなった私は、それでもあきらめきれず大学へ入って一般教養として数学や物理学の講座をとって私自身が納得することから勉強しなおしました。これらの講座では、文系の人でもわかりやすく、数値や数式よりも、それの意味するところを言葉で説明してもらえました。また、社会人になってNHK教育テレビの高校講座も見るようになると、高校時代の授業でわからなかったことがわかってきました。
 そこで、やっとわかったのです。物理の実験の実測値や誤差の数値は、現実の世界の『現象』であり、あのグラフ上の直線は、人間の理解と判断から生まれた『本質』であることがわかりました。特に後者は、物体の等速度運動と呼ばれる法則(人間が考えた理論)の一種であり、現実に起きた現象や『事象』ではありません。しかし、現実のいろんな場面で役に立つ一般的な考え方であり、言わば『基準値』もその仲間と言えます。
 後者に見られるこうした考え方は、数学的かつ科学的な考え方の基本であり、古代エジプト時代から人間にあった『科学的な見方・考え方』です。しかしながら、こうした考え方により結論にたどりつくためには、試行錯誤を含めた様々な経験が必要になり、気の遠くなるような長い年月が必要です。とても一朝一夕には出来上がりません。
 物体の等速度運動にしても、それが発見されるまでのプロセス(現象を観察して考える経験の積み重ね)に人類がかけた時間を考慮すると、学校教育でそのエッセンス(長い経験から導き出された物事の本質)を短時間で教えて、正確な知識として伝わるかといえば少々無理があるかもしれません。でも、私は、そのやり方が間違っているとか、いけないと批判しているわけではありません。私自身がなぜ長い間わからなかったのかを、自己反省しているだけのことです。
 結局私は、このようにして長い時間をかけて、若い頃の理数系嫌いを克服しました。今にして思えば、大学受験や就職には役に立たなかったものの、やっと長い年月の末に、私なりの答えが出て、理解ができて良かった思っています。