私の本業 感動の手植え

 この前、NHK教育テレビの『100分de名著』を見ていたら、『感動のDNA』という言葉があることを知りました。今回の記事のタイトルは、それをもじって作りました。
 今年私は、JA信州うえだの指導員の指示で、去年までとは別の地主さんの田んぼを借りて、米作りをやることになりました。去年やった田んぼの2倍の広さを任されました。去年と同じように2条植えの田植え機をレンタルして使うと大変なので、中古の4条植えの田植え機をレンタルして無事田植えを終わらせました。
 ところが、中古の機械のせいか、それとも、私の技能が未熟なせいかわかりませんが、イネの苗が植わってない箇所(欠株の箇所)が多少出てしまいました。それでも私の場合は、収穫できるお米の量を気にするよりも、キュウリの栽培に必要な藁さえ手に入ればいいと思い、あまり気にしないことにしていました。そのことをJAの指導員さんに伝えたところ、逆に諭されました。「地権者の気持ちを考えて欲しい。」と言われて、注意をされました。
 それまで私は、田んぼを借りている地主さん(地権者)の気持ちや目線を考えたことがありませんでした。田んぼの借り賃を払いさえすれば、あとはそこを借りる人間にできることがすべてだと思っていました。雑草を生やかして、地元の人やJAから注意されても、それは私自身のいたらないことへの責任だけで完結するものだと思っていました。
 しかし、もし仮に私が地権者だったら、気が気ではないはずです。せっかく貸した土地を、草ぼうぼうにされていたり、はぬけの多い苗の植え方をされていたら、悲しくなるに違いありません。もっと大事に、田んぼを使って欲しいと、直接口に出せなくても心の中でつぶやいてしまうに違いありません。
 私は、JAの指導員さんに注意されて、反省すると同時に、田んぼを貸してくれる地権者の気持ちにどうしたら応えられるかを考え始めました。すると、「お金さえ払えば、こっちの勝手だ。」と思う精神が変であることに、気づきました。当然のことながら、借りたものに対するお金はちゃんと支払わなければいけません。がしかし、いくらお金を支払おうとも、地権者の気持ちを無視するような土地の使い方は社会的に認められません。
 実際の作業が私一人の仕事であっても、米作りは一つの事業です。地元の直売所で、できたお米を売ることは、もちろん顧客の創造になります。しかし、ここで私は大切なことを忘れていたと思いました。もともと田んぼの土地を貸してくれる地権者さんなくしては、事業も顧客も生まれないということです。
 これまで一般に社会では、お金を払って製品を買ってくれる人のみを『顧客』と呼んでいました。いわゆる『お客さん』はお金を持っていて、そのお金をどうやったらもらえるか、それだけを考えることが、事業でありビジネスであると考えやすかったようです。でも、本当は、地権者もしくは店のオーナーが必ずいて、彼らの信頼(もっと言えば、資産を他人に貸したことへの彼らの満足感)なくしては、事業であれビジネスであれ始めることができません。また、その継続もままならないことでしょう。
 私は、地権者を顧客と見なして、彼らのその満足感を重視することを考えました。具体的には、田んぼの草取りや、欠株の箇所の苗の手植えをまず思いつきました。これまで私は、田植え機に頼らずに苗の手植えをやるくらいならば、米作りはやらない、と決めていました。しかし、実際に田んぼに入って、植わった苗を踏みつけないように気をつけながら、雑草を素手で取り、苗を手植えしてみると、それほど大変な作業ではないことがわかりました。
 JAの指導員さんの言った通り、地権者の気持ちになって考えることは大切です。地権者が田んぼを目にした時にがっかりしないようにすることは必要だと思います。地権者が「この男に田んぼを貸してよかった。」と後で思ってもらえるように努力をするべきだと思いました。