私の本業 一人で片付けた今年の米作り

 初めに断っておきますが、私は米作り農家ではありません。生計を立てるために、米作りをしているわけではありません。400坪の田んぼは、私の所有する土地ではありません。現在の地主さんと地元の農家さんと地元のJAさんと農業委員会の方々の善意と協力のもとに、米作りをさせて頂いていると考えています。従って、雑草をはやかしたりしないように、病害虫をふやしたりしないようにして、収穫したお米の一部を直売所に売って、地主さんには地代を現金で支払っています。地元の善意と協力をして下さる方々の期待になるべく応えられる方向に、努力しています。
 ですから、個別所得制度に従って減反することはありません。私の米作りには、個別所得制度は関係がありません。それよりも、400坪の田んぼでとれた稲ワラが、農業資材として必要なのです。それが、一番の目的です。実際に、今年のキュウリの栽培で稲ワラを敷いてみたところ、キュウリの生産性が向上しました。この実績も含めて、稲ワラの実用価値が今年は証明されました。私の本業に、いかに必要であったかがわかりました。
 また、TPPに関しても、ノーコメントにさせて頂きます。私はもっと広い視野からこの問題を見ています。これから将来の世界経済のことを考えたら、日本の農業だけが危ないとは言えないと思います。農業大国のアメリカ、工業大国の中国、IT大国のインドが世界的なこの流れに乗っていったら、果たして日本の全産業は生き残れるのか、その方がよっぽど問題です。(ちなみに、私は、転職をしている間に、日本の第1次・第2次・第3次産業のそれぞれの産業の労働を経験してしまいました。日本の農業だけ特別視はしていません。)
 下らない私の憶測で申し訳ありませんでした。それよりも、まず私は、足元を見るべきでしょう。
 再三申し上げますが、私は米作り農家ではありません。稲ワラを大量に必要とする、キュウリ農家と呼ぶべきです。そこで、今年は、春の田おこしから始まって、苗代作り、代掻き、田植え、水管理、病害虫の防除、除草(草取り)、稲刈り、はぜかけ、脱穀、秋の田おこしまで、農業機械の力を借りて、(もみすり以外は)他の人の手伝いに頼らないで一人で片付けました。そう言うと、かっこいいかもしれませんが、実際には今年は、まわりの誰もみな忙しくて助けてくれなかったので、一人で作業を進めなければならなかっただけのことです。
 この仕事は、タイミングが重要です。作業を先のばしにすると、後で倍以上苦労しなければならなくなることが多いので、たとえ人手がなくても、スケジュールを守る必要があります。農業の機械化を利用して、私はこの問題を乗り切りました。農業の近代化の流れからしても、この考えは間違っていません。手伝ってくれる人がいないから、といって、仕事の流れを止めるわけにはいきません。私一人が、一連の仕事に必要な人員の最小単位になって、近代的な機械の力を借りながら、各作業を片付けました。
 ローター付きの小型のトラクター、2条田植え機、2条稲刈り機、脱穀機などを、JAから有料レンタルで借りました。コンバインは、レンタルでも高額ですし、400坪の広さで使うにはもったいないし適切ではないのでやめました。かかったレンタル料金は、あとで直売所でお米を売った代金でまかないました。
 このように、他の人の力を借りずに米作りすることに、なにか意義があるのか、と問われるかもしれません。昨年、私の母に、400坪の米作りをすると話したら、大反対されました。母の子供時代は、実家で農業を始めたために、無理やり手伝いにかりだされたそうです。また、田植えや稲刈りで多くのおばさんたちを雇って、大変だったそうです。しかも、人件費や資材費や牛馬の維持費もかかって、ほとんど赤字だったそうです。そのイメージが消えなかったことを理由にされて、母からは猛反対されました。でも、私は無謀にも米作りを始めてしまいました。それには、私なりの大きな理由があったからです。
 私は、米作りを金儲けの手段とするよりも、赤字を出さない程度にやろうと考えました。必要な肥料や農薬は、きちんと買って、使用しました。その分のコストも、直売所でお米を売った現金でまかないました。借りた土地の地代も、機械の借り賃なども、上に述べたとおりです。
 そして、一番大切なことは、ここで、ちゃんと人間が食べられるお米がとれるということは、意味のあることだと知ることでした。それまでの私は、スーパーでお米を買っていました。しかし、実際に自らお米を作ってみるまでは、どういうお米が食料として安全で安心なのかという本当の意味・内容がわかっていませんでした。ここで作って初めてそれがわかりました。
 食糧にこだわるならば、小麦でも大豆でソバでもとうもろこしでも、いいとは思います。日本人は、昔のように米を食べなくなったのだから、商売的には米以外のものを作るべきかもしれません。しかし、400坪の広さしかない土地では、お米が一番収穫の効率がよいのです。狭い日本のこの場所で、農業として作物を栽培するならば、お米をつくるのが一番効率的にできると思います。その代わり、私は、収穫したお米すべてを、売ったり消費したりする責任を自分自身で負わなければいけないと考えています。作りっぱなしは無責任だと、自らを戒めています。
 つまり、私は日本の食糧自給率がどうのこうのという理由で、米作りをしているわけではありません。もし、作ったお米を誰も食べないのであれば、自給もへったくれもありません。作ったものは消費する。さもなくば、土に返す。それが、永続的に農業をする上での原則であると考えます。私は、作ったお米が食べられる限りは、なるべく消費するべきだと考えます。
 途方も無い考えと言われるかもしれませんが、もし、自給率を考えるならば、アジアの米の食料自給率を考えるべきではないでしょうか。たとえば、東南アジアの某国は、日本の米の収穫量の倍近く米を収穫して、国内で余った分を外国に輸出しているそうです。私は、日本にその真似をして欲しいとは申しません。食料は生ものですから、いつかは腐りますし、商品価値も時間とともに減っていきます。お米だって、例外ではありません。食料として無駄にしないように、なるべく商品価値を下げないようにすることは、日本の優秀な物流システムで何とかできないのでしょうか。
 私は、お米の産地は、日本独自の産地とみるよりも、もっとグローバルに、アジア全体の産地の一部として見た方がよいのではないかと思っています。そうすれば、お米を生産する人の意識も、お米を売りさばく人の意識も変わってくるのではないかと思います。
(なお、今回の記事ではカリフォルニア米の安さについては未検討です。)