読書感想文コンクールの選評を読んで思ったこと

 今年の3月20日の記事で、昭和49年度の読書感想文コンクールのことを書きました。今から36年前のことなので、私自身の記憶ではほとんど当時のことは憶えていません。が、その時に中学校の図書館部の職員の方や国語の先生方が作って下さった、入選作品収録の小冊子が私の手元に残っています。当時書かれた物が活字印刷されて、学校の図書館に保管され、作品が入選した生徒一人一人にも記念として配布されました。その後、中学校に付属していた図書館は、利用者の減少と、建物の老朽化を理由に取り壊されて、なくなってしまいました。それと同時に、毎年図書館に所蔵されてきたこの種の小冊子も、処分されてしまったようです。
 当時は、パソコンやワープロ専用機などは無く、印刷屋さんに頼んで、高価な和文ワープロで打ってもらうか、活字を組んで活字印刷機で印刷してもらう時代でした。当時のガリ版刷りと比べると、活字印刷にはお金がかかりました。つまり、印刷物自体が高価でした。だから、私は、学校から頂いた記念の冊子を捨てることができず、大事に保管していたのです。
 赤い色紙の表紙を開くと、裏表紙に今年度の感想文の優秀作と佳作の作品タイトルと作者の一覧と、審査の先生方の名前リストが記載されています。次のページから、各学年別の作品の選評と講評が述べられて、それに続いて優秀作と佳作が学年順にそれぞれ記載されていました。
 今回は、私の作品について言及した選評の部分を紹介して、私がそれをどう考えているかを述べたいと思います。まず、選評の引用をします。


二年生の作品について             二年生国語科図書館担当
 今回のコンクールでは、その目的がなんであるかを、ずいぶん考えさせられた。確かにある程度優秀な作品は出てくるが、それを支えるものがあまりに貧弱だ。クラス選考の過程での作品は、惰性に流れるか、あるいはしょうがなく書いたといった類のものがあまりにも多い。いろいろなものを、どんどん感じとっていくエネルギーが感じられないのだ。黒田君の作品は、そういう点では感心した。丹念に一つ一つを読みとっていく地味な努力が、一種の瑞々(みずみず)しい叙情を醸し出すとともに、その底に冷静な批判意識の発芽となってあらわれたと思われる。


 『二年生国語科図書館担当』というのが誰を指しているのかは、はっきりとはわかりません。おそらく、中学二年の国語の授業を担当していた先生方を指しているようです。そうした先生方の話し合いによりまとめられた意見が述べられています。
 当時の学校における読書感想文コンクールは、その存続において一つの岐路に立っていたと思われます。もともとは、一人一人の生徒の夏休みの宿題として、何か本を読んで感想文を二学期の始めに提出することから始まっていました。
 高度情報化社会に世の中が変わろうとしていた中で、書物を読むよりもテレビを見るほうが便利に思われてきていました。若者の活字離れが進んでいました。本を読むことも文章をかくことも大切なことに変わりはありませんでしたが、当時の社会の発展のスピードから取り残される心配もあり、読書感想文を書くことは、生徒の将来に必ずしも役立つものとはいえない時代遅れの技能の一つに当時考えられていたようです。生徒の側もこうした課題に対しては、無気力になりがちでした。
 また、別の言い方をすると、インターネットやテレビゲームが無かったこの時代は、小中学生のテレビからの影響が大きくて、本を読まなくなってきたことが社会問題の一つにもなっていました。若い世代の読書人口は減りつつありました。この頃から、本や新聞を読むよりも、テレビを見るほうが、情報を早く簡単に得られると思われ出していました。
 よって、この時期に、私と同年代の大部分は、本を読んで、感じたことを書いてまとめることを苦手とする人が多かったようです。夏休みの感想文の宿題も、形だけで中身を伴わないまま、やり過ごしてしまう人がほとんどでした。なぜなら、国語の成績は、中間考査期末考査の成績で決まるものであって、感想文が下手でも、国語の成績にはまったく響きませんでした。私の同級生はみんなそのことを心得ていたので、読書感想文を書くことは、高校受験には全く関係の無い、すなわち、人生にとって無駄なことの一つと見なされていたようです。
 実は、私自身も、夏休みの宿題として提出した感想文のことで担任の先生に呼び出されるまで、同級生のみんなと同じ意識かつ同じ気分でいました。担任の国語の先生から、私の提出した原稿用紙に赤が入った箇所を見せられて、「ここん所がとてもいいから、もう少し具体的に書き加えてごらん。」とか「もう少し、書き直してごらん。」とか、アドバイスされて素直に先生の言うことに従った結果が、まさか校内の感想文コンクールの優秀作品の一つになるとは夢にも思っていませんでした。校内放送で作品を自ら朗読するのが、ちょっと恥ずかしかったのですが、たとえ優秀作に選ばれたからといって、作品を記載した記念の小冊子しかもらえなかったので、そんなに自慢にはならないことは一年生の頃からすでに知っていました。
 余談ですが、その一年前、私が中学一年の時の読書感想文コンクールで、優秀作品に選ばれた一年生は、塚本優子さんという女の子でした。中学一年の秋に、教室で配られたガリ版刷りの彼女の感想文を見ながら、校内放送でその朗読を聞いたことがありました。同学年でしたが、組は離れていて、普段は会うことはありませんでした。梅島駅の近くの肉屋の娘だった彼女に、私は一度だけ声をかけられて笑顔で挨拶されたことがありました。なぜ、中学一年のあの時期に彼女が私のことを知っていたのかはわかりません。が、校内放送で作品を彼女が朗読していたのを聴いたことがあったので、その時の私は学校内で有名人に会った気がして正直うれしかったです。当時の私は、彼女に直接触発されて感想文を書いたのではありません。中学二年になると、そんなことはすっかり忘れてしまっていました。でも、中学一年の校内放送で同学年の塚本さんの朗読を聞いて、今まで少しも興味の無かった読書感想文というものに私は少しはアートを感じていたのかもしれません。塚本さんとは、それっきり一度も会ったことはありません。でも、なぎら健壱さんの紹介されている梅島駅近くの『ユーコトピア』の女主人はかつては、そういう女の子だったのではないかと、最近失礼ながら勝手に想像させて頂いています。
 読書感想文コンクールの選評から読みとれることに、話しを戻しましょう。読書をする目的や、読書感想文を書く目的を失いつつあった私の同級生たちは、将来に利益をもたらさないことには手を出さないという、徹底した合理主義を貫いていたと言えます。一方、私は考えがずれていたために、将来職業的には批評家になるくらいにしか役に立ちそうにないことに一生懸命になってしまった、というだけのことだったのかもしれません。それだって実は、今回の感想文を仕上げるという具体的な目的以外に動機がなくて、それほど努力していなかったといえます。そんな適当な努力によって、選評の後半部分に述べられているような評価を大人(国語の先生)から頂くことになったのは、ちょっと意外でした。13歳の私は、私自身のしていたことをよくわからないでやっていました。
 しかも、あれから36年たった今でも、私にできることは、36年前の大人たちに評価されたこととほとんど同じことのようです。つまり、能力的には昔身につけた力を失うことも無く、かと言って、新たな進歩もほとんどないようです。テレビのドラマを見て、何か感じ入って、それが何だか文字で書いてみるということを、いわゆる趣味にしています。そうなるために、特に人並みはずれた努力をしてきたわけでもないと思います。はっきり言うと、現在の私自身に何ができるのかは、いまだによくわかっていません。
 ただ、36年前に評価された私の作品は、かくのごとくであったことは事実だったようです。読書感想文コンクールの選評を読む限りは、そう思えます。自画自賛するつもりはありませんが、その選評自体が、ある程度妥当な正しい批評であったと私には思えました。