私のプロフィール 意外と苦手だった国語と英語

 今だから告白してしまいますが、学生時代の私は国語と英語はそんなに得意な科目ではありませんでした。大学の英文学科を卒業しているくせに、嘘だろうと言われそうですが、真面目に勉強すれば誰でもできそうな所までは、私も到達していたとは思います。でも、それ以上の意欲もなかったし、努力もしていなかったと思います。それよりも、私は数学が好きでした。でも、好きな割には、それほど成績が良かったとは言えませんでした。人並みの努力で、人並みの成果をあげていたと思います。ただし、同級生のみんなが努力していない時に頑張ると、トップに近い成績になることは知っていました。
 小学生の頃から、私は国語が苦手でした。親の遺伝のせいにしてしまえば、その理由は簡単でした。私の親も、国語が苦手でした。漢字の読み書きは個人の努力しだいだったので問題なかったのですが、読解力がどうしても身につきませんでした。小さい頃から、テレビばかり見ていて、本を読まなかったのがいけなかったらしいのです。
 小学4年生の国語の教科書に、あの世界的に有名な文豪トルストイの書いた『ひと跳び』(私の頃は『マストの上の少年』という題名でした。)という物語がありました。私は、この物語を読んで、何で最後に少年の命の無事を確認してから少年の父がワッと泣いてしまったのか、わかりませんでした。日常生活で、私の父がそんな風にワッと泣き出すのを、私は見たことがありません。だから、この物語をひととおり読めはしても、どこがいいのか理解できませんでした。もちろん、この物語の見所がそこにあるのだとわかっていたのであれば、幼い私は感動できたはずです。けれども、実際にはそんな経験をしたことも無いし、誰からも教えられたこともなかったので、ただ学校の授業でこの物語を声を出して読んだり聞いたりするにとどまりました。
 教科書では、この物語のあとに『学習の手引き』なるものがついていましたが、学校の先生は、それをとばして、次の教材に進んでしまいました。家に帰って、その『学習の手引き』を読んでみたら、こんなことが書かれていました。「この物語のテーマは、『父性愛』である。それがどのように描かれているか、よく味わってみよう。」と書かれていたのです。
 これを読んだ私は、「はて?」と困ってしまいました。どう味わって良いのか、わからなかったのです。小学4年生の頭では、物語の中で起きた事実は理解できます。でも、『父性愛』は理解できません。大人の中には経験があるのでわかる人がいますけど、それを幼い子供にわかれというのは無理な話です。
 このことに対して、現在私が下した結論はこうです。このような物語を子供のうちに読んでおけば、いつか大人になって、この物語のテーマが理解できるようになるであろう。それによって、読書をする価値が誰にでもわかるようになる、という教育上の効果を狙っていると考えられました。つまり、読書の価値を後世に引き継ぐという目的が、国語の授業にはあるのだと思いました。
 子供のうちに読書をしておく。という、考え方からすると、読んだ内容を正しく理解しておくということが重要になってきます。そのことをチェックするために、国語の読解力をチェックするドリル(練習帳)を、私は買ってみたことがあります。小学5年生の頃のことでした。が、ドリルをやってみて、うまくいきませんでした。どうしても、問題の文章を暗記しないと、設問に正しく答えられませんでした。文章を読むことと暗記をすることは、違うと思います。読解力とは何なのか、いまだに私ははっきり説明することができません。
 読解力がないという弱点を持っていた私が、国語のテストで人並みの点数を取れたのには、わけがあります。まず、漢字の読み書きをおろそかにしなかったことが、あげられます。漢字の書き取りが一番力がつきます。日本人は、漢字が読めないとどうにもなりません。中国人でなくても、日本人はそうなのです。でも、心配要りません。国語辞典を一冊持っていれば、大丈夫。漢字がわからなかったら、すぐ辞書を引く習慣をつけることです。辞書の字が小さくて、目が悪くなりそうな人は、字が少し大きい卓上版の辞書を利用すると良いです。実は、私は今でも文章を書いている途中で、漢字や言葉使いに自信がない時は、卓上版の辞書をめくって正しいか確認しています。
 例えば、「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」という文章があったとします。『激怒』『邪智』『暴虐』の3つの漢字熟語の意味がわからないと、この文章の意味が正しくつかめません。それぞれを辞書で引いて、その意味するところを知ってこそ、上の文章の意味することを理解できるのです。ひとつひとつの意味するところを、もし知ろうとしないで、知らないままにしておくと、当然ながら見落としが出てきます。そうならないために、ただ読み飛ばさずに、学習の途中で辞書を引く余裕が欲しいのです。
 このように考えてみると、英語の場合も同じです。意味が不明な単語や熟語は、知らないままにしておくと、いつまでたっても英文が理解できません。面倒でも、英和辞典を引いて、ひとつひとつの意味するところを知っていく努力が必要です。
 実は、私は英語をペラペラ喋れません。ペラペラ喋られても、聞き取れません。今までの私の日常生活には、そうしたことの必要がなかったのがその原因です。でも、心配いりません。英語がペラペラな人よりも、英語のテストでよい成績をとることができます。私自身が、それを大学の成績で証明しました。私は、英語をペラペラ喋れる同期の女子大生に恋をしたことがありません。彼女らは、私にとってはライバルであり、どうやったらテストの点数で勝てるかを考える拠り所に過ぎませんでした。その闘志の大きさで勝ったというだけのことです。
 馬鹿みたいな話をしました。英語が苦手でも、英語が使えなくなるわけではありません。英語が得意でなくても、英語は理解できます。間違った使い方をしなければ、テストでいい点を取れます。
 英語は、日本語以上に、ひとつひとつの言葉の意味と用法を、文例と一緒にして知っておく必要があります。この見方からすると、英語は数学に似ています。論理的な考え方で、言葉の用法が理解できるようになるまでは、単語なり成句なりを逐一覚えていかなくてはならないので、大変でした。英単語の意味がわからないとどうにもならない、暗記の多い科目にみられがちです。私もまた、これは努力して、英単語や英熟語を暗記していくしか他に方法は無いなと、あきらめていました。がしかし、それだけでは英語はわかりませんし使えません。言葉の使い方の法則性がわからないと、英会話はできても肝心なことは伝えられません。
 そのことに気付くまでの私は、機械的に記憶するだけの、詰め込み教育に従っていたので、英語が少しも面白くありませんでした。いくら英単語を覚えたところで、何の役にも立たないし、我慢や忍耐をすることを教え込まれているに等しかったと言えます。それはそれで意味があったのかもしれませんが、その一方で、思考を停止したいわゆる『頭の固い』人間になってしまう可能性もあったわけで、実際は深刻な状況にいたのかもしれません。
 従って、本来、英語を学ぶということは、規則はそれなりにしっかりしているけれども、その応用面では柔軟に考えるということを学べるいい機会だったのではないかと、現在の私は考えるのです。