役者について思うこと

 少し前になりますが、『臨場』というテレビドラマを見て思ったことがありました。このドラマでは、毎回殺人現場で検死が行われ、死体役の俳優(または女優)さんが素っ裸で大きなタオル一枚かけられた状態にされて体のキズなどを調べられるシーンが出てきます。それを見るたびに私は思うのです。この俳優(または女優)さんは、素っ裸で大きなタオル一枚かけられた、ちょっと恥ずかしい姿であっても、カメラでしっかりテレビに映るこの役を、役者としてやりたかったのだな。絶対この役を逃したくなかったのだな。たとえ本心はやりたくなくても、家族か自分の生活のためか、それとも、有名な役者さんになることが将来の夢でこの役を引き受けたに違いない。と、私は毎回このシーンを見るたんびに想像するのです。
 テレビ・映画・演劇いずれの場合も、配役というものは、制作スタッフのキャスティング担当が普通は決めるものであって、役者の側が勝手に役をやりたい、やりたくないを決めるわけにはいきません。役の依頼を役者の側が断ったりしたら、(どの業界の仕事でも同じなのですが)同業の他者に仕事を奪われてしまいます。これをちょっとシャレた言い方で表現すると、「役者は役を選べない。」のかもしれません。
 私などは、生まれてこのかた役者になりたいとは一度も思ったことはありません。役者は面白いとは思います。中学二年の夏休みの林間学校でのことです。夕食後のミーティングの時間が、行動グループごとの余興を発表する予定になっていました。あの映画好きの、映画監督気取りの寺田君が、『走れメロス』の劇をやるぞと言い出して、「黒田。おまえはメロス役だ。」といきなり決まってしまいました。他のグループは、みんなで歌を歌ったり、漫才をしたり、クイズを出題したり、と簡単な催し物ばかりなのに、何で自分のグループはメロスなんだろう、恥ずかしいと、私は心の中では思っていました。結局、監督である寺田君の指示に従うしかなかったのですが、メロス役だけはみんな、なりたくない、と避けていました。私は貧乏くじを引いてしまったのだと思いました。それでも、あの頃は、13才で若い私には記憶力も集中力も人並みにありました。そのせいでしょうか、この小説のセリフ部分の3分の2を夕食前の20分〜30分位で憶えてしまい、50分位の芝居をやりました。夏休み前の国語の授業でみんなに内容が知られていた小説だったので、セリフのごまかしが効かないな、と思いつつも、私は授業を真面目に受けておいてよかったと思いました。それがリハーサル代わりになったようなのです。寺田監督の思惑どおり、実際その場でやってみると面白かったのですが、みんなからはそんなに注目はされませんでした。そんなお芝居できて当たり前だ、と観ているみんなは思いました。そう思ってくれたおかげで、かえって私は気楽でした。その気楽さからわかったことは、「役者は自分自身を表現していない。」ということでした。言い方を変えると、「役者は芝居で自分の本当の姿を表現できない。」のです。
(つづく)