私のプロフィール 14才の叔母

 今回は、私の名前が付けられたいきさつと、その名付け親である私の叔母との関係をお話しましょう。私は、14才の母に直接会ったことはありませんが、14才の叔母が実際にいました。私の実家の黒田家は東京にありますが、祖父・祖母・父・母・父の弟妹の計8人の大家族でした。私の名付け親は、父でも母でもなく当時中学2年だった私の叔母でした。国の男などというと、愛国心に厚い人物を思い浮かべてしまいそうな、偉そうな名前のイメージですが、決してそんなことはなかったのです。叔母によると、文学者の名前から付けたそうです。おそらく『遠野物語』の柳田国男から取ったのだと思います。でも、それは叔母の勘違いで、本当は民俗学者でした。私のこの名前は、田の字が3つもあって、小学1年生でも読めるような易しい名前なのですが、4つの漢字がいずれも角ばっていて、融通の効かない性格を表しているようです。いかにも、中学生が付けた名前だなあ、と今になって思います。
 当時、父は仕事で忙しく、母は大家族の世話で忙しく、幼年期の私は、10代の叔母さんの勉強部屋へ行って遊んでもらったり、一緒にテレビを見たりしていました。その叔母かまたは祖父が、私をいつもお風呂に入れる当番でした。まだ物心がついていない時期だった私には、性的な感情とか恋愛感情とかはありませんでした。叔母を、当たり前にいる友達のように思っていました。今でさえ、一生懸命に思い出してみても、10代の叔母さんの大きな盲腸の手術の跡しか思い出せません。
 今になって考えてみると、当時10代の叔母が自分の家族の一員として当たり前にいたことの意義は大きかったと思います。性的な感情とか恋愛感情とかが無くって、相手と家族として一緒にいられるって、ちょっといいかもしれないな、自分の人生にとって貴重な体験だったなと思います。もっとも、そのデメリットも大きく、女の子や女性と付き合おうとする努力をしなかったり、交際の仕方さえ知らなかったりします。いまだに独身という、とんでもないことになってしまいます。(家事は自分でやってしまうので、□△先生にはほめられるかもしれませんけどね。)
 その叔母は、私が小学生になった頃に看護学校の寮生活のために家を出ていき、私が中学生になった頃に結婚のために昔の勉強部屋を片付けに帰ってきました。いずれの時も、私は、かつての家族の一員としての叔母を見て、ちょっと挨拶をしただけで、何の感情もわきませんでした。その時の私は、叔母のことを好きとも嫌いとも思っていませんでした。こういう軽い人間関係って、疲れなくてなかなかいいものです。