心や感情を持ったAIの悲劇

 上映当時、かっこよすぎる予告編としてYouTubeなどでも有名になった『EVA』というスペイン映画を、今回は扱ってみようと思います。私は、レンタルビデオ屋さんからDVDを借りて、この映画の本編を観てみました。ロボットに感情を与えるプログラミング技術が、ビジュアル的に美しく映像化されていて、サイエンス・フィクション的な内容をしばし忘れてしまいます。しかし、結局この映画が扱っている重すぎるテーマに私は気づかされました。
 その映画の主題が、人間とAIの感情の問題を扱っているだけに、人によっていろんな感想や意見を抱くことになるとは思います。あるいは、「映画の予告編がかっこよすぎた」ために、何かサスペンス的なものを本編を観る前から期待して、見事にその期待が裏切られたという人も少なからずいらっしゃったことでしょう。「何だ。人間とAIとのやり取りが上手く行かなかっただけのことじゃないか。」とわかって、そこには国家的なスパイの陰謀とか、絶対的な悪魔の存在とかがあるわけでもなくて、この映画を観てがっかりしてしまったという人も少なからずいらっしゃったかもしれません。
 この映画のそうした「もやっ」としたところを、私は読み解いてみたいと思いました。現代の私たち誰もが、AI搭載ロボットなどに抱いている「もやっ」とした夢や希望の一つが、「AIが人間と同じような感情を持つこと」だと言えます。
 その『EVA』という映画では、ロボットに人間的な感情をプログラミングすることを研究している研究所のある町が舞台として描かれています。そのような研究機関で働いている研究員とその家族の、人間関係のドラマが描かれます。そして、『EVA』と呼ばれる少女の秘密が、そのドラマの最後に明かされます。ただそれだけのストーリーなのですが、そのような特殊な日常環境に置かれて苦悩する研究員(あるいは元研究員)の人たちの言動があまりに人間くさくて、壮大なファンタジーや大活劇を映画に期待していた観客は、ちょっと拍子抜けしてしまったかもしれません。
 しかし、私たちの将来に、AIやロボットの進歩を夢見ている人や、AIが人間に近い感情を持つことに興味がある人には、必見の映画と思われます。是非とも、この映画を鑑賞されることをお薦めいたします。この映画は、『EVA』という少女やその家族の悲劇を描いてはいますが、決して、AIが進歩する未来を批判や否定したり、誰が真犯人で悪いのかということを追及しているわけではありません。それよりも、人間の心あるいは感情がいかに『やっかいなもの』であるかを気づかせてみせてくれます。ヒューマン・ファーストに走りがちなヨーロッパで、このような内容の映画が制作されたのは異例なことかもしれません。
 ロボットなどの機械に、人間の心や感情と同じようなものを身につけさせた場合、この映画の劇中では、とんでもないことが起こります。人間とロボットの間が共にいらいらした不安定な関係に陥り、ロボットは人間に暴力をふるってしまい、人間はロボットをシステム・ダウンさせてしまいます。人間の側から見れば、ロボットがシステム・エラーを起こしたと考えます。一方、ロボットの側から見れば、人間が不安やパニックや強圧的になって理不尽なことをやり始めたと認識します。つまり、人間の心や感情というものが、いかに危(あや)ういものであるか、ということを、この映画は訴えているわけです。私たち人間の心や感情が不安定になる、その元凶は、私たち自身の心や感情のうちにある、ということなのです。
 そして、この映画で描かれている事件から、私たち人間は、次のようなことを教訓として学ばなければなりません。私たち人間は、AI搭載ロボットに人間の心や感情を抱かせることに成功したあかつきに、大きな反省を強いられます。ロボットが、自らを人間であると思い込んで誤認してしまった、その一生涯に対して責任を負っていくことが、私たち人間の免れない義務となってしまうのです。
 重ねて申しますが、人間の心や感情ほど、危(あや)うくて『やっかいなもの』は他にはない、と思います。ロボットなどの機械に、人間の心や感情を抱かせたいと考えることそのものも、私たち自身の『孤独への不安』や『寂しさの感情』から生じているだけのことなのかもしれません。残念なことに、誰の心からも、そのような何らかの不安な感情を消し去ることは(一時的に、だますことはできたとしても)決してでき得ないことだと思います。