ファクターWにご用心

 今回は、この年末年始から念のために、『ファクターW』に気をつけたほうがいいかな、という話をしたいと思います。この『ファクターW』という耳慣れない言葉は何かと言いますと、あのIPS細胞で有名な山中伸弥さんの提唱されている『ファクターX』をわたくし流にもじった造語です。この『W』は、ワースト(worst)の頭文字で、最も悪いことという意味です。
 最初にまた、わたくし事で申し訳ありませんが、今年の9月に私の地元において定期健康診断をかかりつけのクリニックのお医者さんで受けました。その1か月後に、その診断結果が地元の市役所から郵送されてきました。その健康診査結果報告書に目を通して驚いたのですが、中性脂肪や尿酸の値が前回以前よりも高くなっていました。メタボを表すBMI値とか、血圧値は、前回以前と同じかむしろ少し下がっていました。しかし、腎臓の働き具合を示すクレアチニンの値や、尿たんぱくの検査では、陰陽性のしきい値から少し悪くなっていました。また、赤血球数やヘモグロビン量からも、貧血気味な傾向がまだ改善されていないことがわかりました。
 『今回の総合結果』欄には、内臓脂肪の蓄積が考えられて、生活習慣の見直しをすすめられていました。また、引き続き医師指導のもと、治療を継続してくださいとの旨が、血圧や腎機能関連の8項目くらいの検査判定と共に書かれていました。つまり、今回の私の体の健康診断では、前回以前よりも少し悪化したところがあったわけです。しかも重要なことは、その状態を私自身が自覚していなかったということにありました。
 2か月に一回の外来で11月に、かかりつけのクリニックのお医者さんにその健康診断結果についてうかがいました。ところが、意外な応答がありました。これまでであったならば、かなりきつい注意がされていたのですが、今回の診断結果についてはそれほど追及されませんでした。そのことについて、私は、後になっていろいろ考えてみました。風邪症状の人は外来しないで保健所に相談してほしいというお願いのため、外来の患者さんが少し減っている影響のためかもしれない、と思いました。しかし、それだけではないようです。もしかして、お医者さんは地元の患者さんたちを診ていて、全体的にその健康状態が前年の同時期よりも落ちていることを実感されているのではないか、という推測が私にはできました。
 わたくし事の話はここまでなのですが、ここで、ちょっと心配な『ファクターW』があると推測されます。もしも、その『ファクターW』があるとすると、最近メディアで連日騒がれている「重症者数や死亡者数の全国的な増加」の原因の一つが説明されてしまうようなのです。すなわち、日本国民全体の心身の健康状態が、私たち一人一人が自覚している以上に低下している疑いがあります。人間は体が資本ですから、いくら感染症対策を徹底しても、悪化の一途をたどってしまうのは目に見えています。このままだと、全国の新規感染者数や重症者数や死亡者数が、しばらく減ることはないという単純な予想もできます。
 どうしてそうなったのか、という原因をつきとめてみると、あの4月の緊急事態宣言にある意味一因があったようです。その解除時に西村大臣が「もうこれ以上、緊急事態宣言は嫌(いや)でしょう。」みたいなことをおっしゃられていました。「その時すでに、多くの日本国民は心身のダメージをかなり受けていて、しかもそれを全然自覚していなかった。」ということが、一番の問題だったのです。そう考えてみると、一連の”GoTo”キャンペーンは、経済的には観光産業や飲食産業などの支援であった側面とは別に、私たち一人一人の心身のケアのためという側面があったのです。しかし、現実的には、後者の側面は、多くの人々に全く理解されていませんでした。そして、そのツケを払わされているというのが現状だと思います。
 そもそも、ロックダウンというものがどういうものなのかを、私たちは本質的に理解することが必要なのです。人の移動や往来を止めさえすればいいと安直に思ってはいけません。人も物資も止めなくてはロックダウンにはなりません。日本人にわかる言葉で言えば、それは『兵糧攻め』です。その兵糧攻めで感染者数が減るので、悪者ウィルスがダメージを受けて減少するわけです。しかし、ロックダウンされた人間の心身のダメージも大きくなります。ロックダウンや緊急事態宣言などの社会的制限は、その解除後に心身のケアが十分にされていないと、のちのち半年後や1年後にそのダメージや後遺症がじわじわと出てくるのです。そして、それは当然のことなのです。よって、年末年始は、なるべく静かに過ごすことが賢明だと言えましょう。
 一般的に、私たちは、ロックダウンや緊急事態宣言をすれば、感染拡大が抑えられて、新規感染者数が減るということを、過去の経験として知っています。だから、メディアでアンケート調査をとると、「再び緊急事態宣言を出してほしい。」という意見が多いことがわかります。しかしながら、その方策に賛同することには注意が必要です。ウィルスに対する『兵糧攻め』が本当に正しいのか、冷静な検証が必要です。そのようなことへの私たちの判断が、間違った経験則に基づいていかないことを願っています。

過去が希望を与えてくれる

 「過去の栄光や成功にこだわってはいけない。」「過去を振り返ってばかりいては前には進めない。」「希望は未来に託すものだ。」等々の文言(もんごん)があることは、皆さんもご存知のことでしょう。私は、過去を語ることによってノスタルジア(nostalgia)を論ずるつもりはありません。この「過去が希望を(与えて)くれる。」という、ちょっと謎めいた文言にどんなことが込められているのか、知りたいと思う人も多いと思います。今年その文言を初めて知った私にとって、それは忘れられない文言となりました。なぜならば、今年の私は、過去の記憶に救われるという経験をしたからです。
 もともと、私は、過去の記憶などというものが嫌いでした。子供の頃の記憶をたどっても、いやなことばかり思い出されました。また、勉強で学んだことも、詰め込み教育で学ばされたものばかりで、「こんなことを学んでも大人になって役に立たないな。」と当時は感じるものばかりでした。かたっぱしから記憶することが苦手で、それには苦痛を伴いました。学業成績が頭打ちとなり、格上(かくうえ)の学校を目指す努力が失せていきました。
 そんな私が、今年の4月の上旬と下旬に大変な目に会いました。ちょうど緊急事態宣言の1週間前と1週間後に高熱を出しました。その頃の生活状況を考えてみると、ずっと地元にいて、しかも、それ以前の3か月間を思い返してみても、地元の飲食店街に一度も行っていませんし、会食だって一度もしていませんでした。地元の様々な店舗では、マスクをしている人はほとんどいませんでした。そして、現在のような感染症対策をしている店舗が一つも無かった時期のことでした。いわゆる感染経路不明の典型で、知らない間に体調がおかしくなりました。地元のドラッグストアへ体温計を買いに行ったら売り切れていて、体の動きが鈍くなるなどの異変が感じられたのは、以前このブログ記事で述べた通りです。
 私は、高血圧の治療のために家庭用血圧計で朝晩定期的に血圧と心拍数を測っています。家に帰って手と体を洗ってから、心配だったので血圧計で測定してみました。通常の血圧値と心拍数のバランスが崩れていて、激しい運動をしてもいないのに心拍数が軽く100を越えていました。その時は、さすがの私も一人で焦(あせ)ってしまいました。「もしかして、ダメかもしれない。自分は、人生これで終わりになるかもしれない。」と悲痛に思いました。
 しかし、そんな時に、私は、あることを思い出しました。小学2年生の春に私は、はしか(麻疹ウィルスによる急性熱性発疹性感染症)にかかりました。高熱を出して床に伏して目を開けていると、看病していた母が「布団に入って大人しくしていなさい。」とか「安静にしてなさい。」などと二言三言しゃべってくれていました。そのことを、ふと思い出して、「もしかして、自分は助かるかもしれない。」と私は考えました。
 その「ダメかもしれない。」が「助かるかもしれない。」に変わったのは、「安静にしてなさい。」と母が私に言ったという、私の過去の記憶のおかげでした。その記憶から、生きる希望が生まれて、それを糧(かて)にして、一人でできるだけの手を打つことができました。その結果については、以前ブログ記事に書いた通りです。たとえその結果が失敗して、最悪の結果を招いていたとしても、私自身の記憶が、私に希望をくれたことは事実だったに違いありません。私の母の言葉に感謝すると共に、過去の記憶というものが(『経験』と言い換えても良いかもしれませんが)現在や未来に役立たないものでは決してないことに気づかされました。
 そもそも、その「過去が希望をくれる。」という文言は、東映特撮ドラマ「平成仮面ライダーシリーズ」の『仮面ライダー電王』第18話で登場人物たちのセリフの中から出てきた言葉でした。その意味の英文が裏面に刻まれた懐中時計も登場しています。また、この第18話では、「憶(おぼ)えていれば、それはなくならない。」という文言も、そのセリフの中に登場いたします。
 これはどういうことかと申しますと、「まわりのすべては変わってしまい、すべて過去となって現在からは消えてなくなってしまう。けれども、人はたとえそれを寂しいと思っても、その過去をしっかりと憶えてさえいれば、その人の心の中でそれは消えてなくならない。」ということです。ここで扱われているのは、かなり哲学的で難解な内容です。しかし、そのようなことを理解できるならば、幸運(ラッキー)だと考えられます。なぜならば、現在あるいは未来を強く生きていくためのエネルギー、すなわち希望を、自分自身の過去の記憶からもらい受けることができるからです。まわりがどんなに新たに変化して寂しく思えても、大事にしたい過去をしっかりと記憶して心に残しておければ、現在や未来の困難な現実を乗り越えて生きていける。すなわち、人間が生きる希望を持つとは、そういうことなのだと、その第18話の内容からは読み取れるのです。(「子供番組だから、と言って侮(あなど)るなかれ。」といったところでしょう。)

 

ゆりカゴから墓場までとは言いますが…

 確か、この言葉は、「人が生まれてから死ぬまでの面倒をみる。」という意味の、社会保障制度のキャッチフレーズみたいだったような気がします。しかし、近年の日本においては、もっと違う意味を持ちつつあります。
 私は、東京の実家から歩いて10分のところにあった、助産所(通称お産婆さん)で生まれました。その当事者である私の母の話によると、お産の時に亡くなってしまう妊婦さんもいたそうです。そうした過去の惨事の影響でしょうか、近年の日本では、病院で子供を産むことが当たり前となっています。
 また、重病や老衰で亡くなる人も、病院以外でよりも、病院内で亡くなることが多いようです。私の祖父も祖母も、私の実家で晩年を過ごしていました。歩けなくなって寝たきりになっても、私の母に介護してもらっていました。がしかし、体調を悪くしてからは、病院に入院していました。そして、やがて病院で息を引き取りました。なお、私の父も、重病で病院の入退院を繰り返していくうちに、60代のなかばに胆のうガンの末期で助からなくなって大学病院で亡くなりました。
 このように、近年の日本では、「生まれるのも亡くなるのも、病院で」という人が、日々増えていると思われます。『病院』という言葉の位置づけよりも『命院(みょういん)』すなわち『命(いのち)の医院』という言葉の位置づけになっているようです。つまり、現代において日本の病院は、「命のやりとりをするのに不可欠な場所」という意味合いを強めています。したがって、そこがひっ迫するということは、自ずとそこでの死者が増えるということです。そしてまた、それは至極当然のことであり、それほどショックなことではないと言えます。
 こうした日本国民にとっての病院などの医療機関とのかかわりの変化は、もうすでに「今の時代に合わない」という兆しをメディアに露呈しています。(注・私が子供の頃は、今とは逆でした。感染症が流行している時期、すなわち、感染拡大や市中感染が懸念されている時期に、感染症が疑われる人は病院へ行ってはいけない、ということが鉄則でした。今は時代が変わって、一般的に逆のように思われているようです。)広く知られているように、JA(旧農協)がつい最近、組織改革をされました。次は、きっと日本の医療の抜本的改革が近い未来に不可避となることでしょう。日本のメディアには、それを注視する責任がずっと伴うことになると思います。(相変わらずの場当たり的な見方をしないでほしいと願うばかりですが…。)

人類の科学未来図に期待する

 もうずっと前から書きたいと思っていたことを、今回私は書きたいと思います。たとえ、将来の世界経済が停滞したとしても、自然科学およびそれに支えられた科学技術が世界のどこかで発展していくことは確実と言えます。昨今の『コロナ禍』で、自然科学の研究がストップするどころか、ますます発展の一途をたどっているように思われます。たとえ日本国がその進展にストップをかけたとしても、世界のどこかでその研究は多様に続けられていくことでしょう。いずれ私たちの日本国は、自然科学の分野でも、取り戻すことのできない『遅れ』を思い知ることになると思います。
 今年のノーベル化学賞を獲得したのは『ゲノム編集』でした。実を言いますと、私はゲノム編集や遺伝子組み換えといったことには興味がありません。なぜならば、金持ちではないからです。正直言って、お金が無いので、何もできません。それなのに、何でそんなに、これからの自然科学に期待しているのかと申しますと、『新型コロナウィルス』の感染拡大をきっかけに、「ひょっとしたら近い将来に誰かに解明されてしまうかもしれない、いくつかの謎や秘密がある。」ということを知ってしまったからなのです。たとえ世の中でいかなる不幸や災いが起ころうとも、もしもそれらが解明されることになれば、現在および将来を生きていく人類全体の意識が微妙なところで変わっていく(大袈裟かもしれませんが)その可能性があります。そのことは、ノーベル賞受賞の云々(うんぬん)よりも、ずっとスケールの大きなことだと、私は個人的には思っております。
 先日私は、Eテレの『サイエンスZERO』という番組で、「宇宙夜話スペシャル 小学生と迫る”生命誕生”のナゾ」という回を30分間視聴しました。私は、この番組で、とある事柄を確認したいがために、あらかじめ録画予約をしてまで、その番組を視聴することを期待していました。今から数十年前に、私は、テレビや新聞で、こんなニュースを知りました。宇宙空間に、生体物質の一つであるアミノ酸が発見されたというニュースです。つきつめて考えてみれば。私たち人類を含む生物は、一つ残らずこの物質から作られており、あの『新型コロナウィルス』でさえ、分解すればアミノ酸になってしまいます。この宇宙空間でのアミノ酸の生成は、現在では、このように解釈されています。「宇宙空間では、極度に微細な塵(ちり)に、元素の粒が付着して、アミノ酸が合成しやすい環境になっている。」(『サイエンスZERO』で紹介されていた説による。)そのアミノ酸が、隕石となる無機質に付着したり含まれたりして、地球に落ちて蓄積して、それが地球に生命体が誕生するための材料になったようなのです。
 しかし、ここで最大の謎に私たちは直面します。無生物だらけの環境から、どうやって生物が現れたのかという問題です。そこで、あの『新型コロナウィルス』で世間を騒がしている『ウィルス』というもの全般の存在が注目されます。先日私が本屋さんで買った高校生物の学習参考書によると、「ウィルスは、単独では代謝など生命活動を行わないので生物ではありません。ところが、生物体に感染すると自己増殖が行えます。自己増殖が行えるということは、生物の最も重要な特徴です。つまり、ウィルスは生物と無生物の中間的な存在なのです。」とありました。
 確かに、『ウィルス』は単独では生命的な特徴を持っておらず、他の生物や生命体に寄生もしくは感染しないと増殖などの生命活動ができません。他の生物や生命体が存在しないと、生きていけない(すなわち活性化しない)ことから、他の生物や生命体が現れる以前には存在しなかったという説もあります。
 しかし、現在確かに言えることで、最も重要なことは、世界の分子生物学者さんたちが言われているように「ウィルスが生物と無生物の中間的な存在である。」ということだと言えます。ウィルス全般が、生物や生命体のルーツであるとは言いがたいとしても、私たち人類を含む生物のルーツであるところの原始生命体が、ウィルス的な特徴をいくつか持っていた、という推測はできるかもしれません。そして、それは、現存するウィルスと同じように、生物と無生物の中間を埋めるものだったのかもしれません。
 そのようなことに、何らかの実証が多数加わることによって、地球内での生物誕生の謎や秘密、あるいは、生命体そのものの誕生の謎や秘密、そして強(し)いては、人類誕生の謎や秘密(「ヒトのゲノムの4割は、ウィルスのゲノムと同じ。」との山内一也さんの言があります。)などが次々と解明されていく可能性がある、と私は考えています。
 それらの謎や秘密の多くが解明された時に、私自身はこの世をすでにオサラバしているかもしれません。でも、ちっぽけな私自身の命などこの際どうでもいいなと思っております。ただ言えることは、それらの謎や秘密が、たとえ全て解明されたとしても、その科学技術への応用が必ずしも追いついてはいかないということです。いわゆる『不老不死』というものが科学的に実用化するためには、さらなる長い時間のかかる研究が必要となることでしょう。政治上や国家上の事情から、その研究を目指す某国が近年のうちに出てくるかもしれませんが、最初の実験台に乗せられる人間はモルモットの運命をたどることでしょう。人権上の理由から、私はお勧めできませんが…。一方、先の『サイエンスZERO』で、なぜ小学生たちと共に『地球の生命誕生のナゾ』について番組が進められていたのかが、ここまで読んでいただいた皆さんにはわかったと思います。かれら小学生たちが大人になって生きている間には、十分にそのナゾの一部が解明されるチャンスが訪れているはずです。それを、今の私は期待しています。

 

『新型コロナウィルス』という言葉の諸相

 毎日のように世間を騒がせている『新型コロナウィルス』ですが、今回は言葉としてそれを分析してみましょう。用法の面からみると、最近ではそれを俗に『コロナ』とか『ウィルス』とか言われて使われています。例えば、『コロナ禍』とは「新型コロナウィルスの影響によって引き起こされる禍(わざわい)」のことです。つまり、『コロナウィルス』や『ウィルス』という言葉は、以前のそれそのものの意味としてよりも、『新型コロナウィルス』の意味で多用されるように変わってきました。
 言葉のニュアンスからみると、良くない印象が強い言葉と言えます。こうしたコメントは、今さらと批判されるかもしれませんが、その印象が日々強くなっているように思われます。どうしてそうなってしまうかが、意外と重要です。私たちの生活の中で、何か問題があったり、うまくいかないことがあると、ほとんどすべて『新型コロナウィルス』のせいにされている現状をみれば、それは明らかです。そのことによって、不快感や不安に振り回されて、それが日々ストレスとして積み重ねられています。同時に、その言葉の意味やニュアンスにも、そうした私たちのネガティブな感情が付加され続けているわけです。
 いわゆる『コロナ慣れ』とは、そうした不安な感情の裏返しです。「新型コロナウィルスなんか大したことない。」という考えや思いは、そこから生まれてきています。「現状はどうであれ、私はそう思いたい。」という感情や思いなのでしょう。
 一方、『ウィルス感染者』を悪く言う状況は依然として変わりません。それは事実です。『新型コロナウィルス』が悪いウィルスだから、それに感染する人は『悪い人』である、という庶民の理屈だと思います。皮肉なことに、感染予防対策が叫ばれれば叫ばれるほど、その傾向は強くなって、「対策を守れなくて感染した人は悪だ。」ということになってしまいました。一時、「人が悪いのじゃなくて、ウィルスが悪いのだ。人を憎むんじゃなくて、ウィルスを憎むべきだ。」という意見もありましたが、結局「アイツがコロナに感染しなかったら、こんな面倒な世の中にならなかったのに…。」ということになって、「感染者を憎む」ことが一般的な庶民の感情となって固定してしまったかのようです。
 だから、PCR検査で陰性証明された人を悪く言う人はいません。「医療機関にも迷惑をかけない優等生だ。」と世間は評価してくれることでしょう。ここのところ、寒さがゆるんで、季節はずれの暖かさが続いています。体調も気分もいい、今こそ『移動』のチャンスだと考えたことでしょう。GoToキャンペーンを利用した旅行もいいでしょう。そして、もう一つのチャンスがありました。体調も気分もいい時に、PCR検査を受けておくという選択です。おそらく体調も気分もいい時は、検査陽性は出ないだろうという思い込みが庶民感情としてあるのだと思います。(感染して無症状だった人は、みんなそう思っているものです。ウィルスやPCR検査を甘く見ないことをお勧めいたします。)
 『コロナ』と『ウィルス』と『感染』の3つの言葉は、現在のところワースト3ワードと言えます。しかし、それらの言葉を悪玉としてしか見ていない世間の風潮には、危険なものを感じます。言葉は言葉として、現状や現場から目を背けずに、かつ、慎重であることが必要です。そのためには、決して焦ってはいけないと思います。冷静に世間の状況を分析し見守っていけるかが、多くの人々の課題と言えましょう。

コロナ疲れと慣れについて

  最初にワタクシ事ですが、ちょっと書いておきます。私のいる地元では、4月初め頃から始まって、ここのところ軒並み、集団のイベントや会食を伴う会合が中止になってきています。でも、私としては、その通知や連絡をしてくれた幹事さんや主催者さんへは「その会合を中止することは科学的に正しい判断だと思います。」と賞賛と感謝の意をこめて返信しています。会食で、新型コロナウィルスが感染しやすいことは、かなり初期からわかっていたことです。だから、私はあえて参加しないのが正しいと思っていました。
 というのも、「ウィルスと共生していく。」という考え方を学んでいくうちに、「ウィルスって、壊れることはあっても、消滅することは無いんだな。」と知ったからなのです。ある日私は、Eテレの『こころの時代 ~宗教・人生~』という番組を観ていました。「敵対と共生のはざまで」という回で、ウィルス学者の山内一也(やまのうちかずや)さんが、インタビューに応じていらっしゃいました。その中で、「ウィルス全般について言えば、人類(ホモ・サピエンス)がわずか20万年前に地球上に現れたのと比べて、ウィルスは30億年前から地球上に現れて存在してきた生命体だったのです。だから、全然勝負にならないわけです。」と歴史的な根拠を示されていらっしゃいました。また、「新型コロナウィルスのようなウィルスが感染拡大することは、なんら不思議なことではないな。」と思われたそうです。(このような山内一也さんのお話には、他にも大切な内容が含まれていました。それらは、これからも随時このブログ記事で触れていきます。)
 ここで注意していただきたいのは、「だから、私たち人類は、感染症対策など何をしてもムダだ。」ということにはならないということです。現在の私たち人類は、「様々な対策でウィルスの増殖や活性化を止めることはできても、ウィルスの存在自体を消し去ることはできない。」ということを知らなければなりません。PCR検査は、ウィルスなどの遺伝子を調べる方法であり、ウィルスの残骸をも拾ってしまいます。また、ウィルスが人間の体内で増殖しているのか、不活性化しているのかが全くわかりません。そこのところがわからないと、大変なことになりかねません。
 そのような意味では、感染症の専門家さんたちや各地の保健所の職員の人たちは相当努力をされていて、頑張っていらっしゃると思います。そのことが世間に広く認識されていないままでは、いずれ社会的にサイエンスが冤罪(えんざい)を生んでしまうかもしれません。今はまだ、そうではないかもしれませんが、結局、サイエンス自体が社会的に悪者扱いにされてしまうことでしょう。どうにかならないものでしょうか。(外国からの断片的な報道に安易に振り回されないと良いのですが…。)
 さて、本題に入りましょう。いずれ起こるかもしれないサイエンスの危機と少し関係があるかもしれませんが、最近の人々のいわゆるコロナ疲れと慣れが気になります。テレビなどのメディアでは、それによる中だるみを防ぐことをかなり呼びかけられてはいますが、果たして、人間の体と心がそれについていけるのか気になるところです。そこで、この『コロナ疲れと慣れ』の問題を私は今、考えてみようと思ったわけです。
 コロナ疲れというものがどこから由来するのかを、まず検証してみましょう。緊急事態宣言、ステイホーム、テレワーク、雇い止め、PCR検査および感染症対策等々と、ここ1年間で私たちのまわりの状況は、目まぐるしく変わってしまいました。新しい生活様式や行動変容という慣れない言葉や状況に振り回されて、心身共に休まらない毎日に追われて、これまで無意識に蓄積していたその疲労が冬の寒さの到来で、一気に心身に現れてきたようにも思えます。風邪症状に慌てて医療機関等でPCR検査を受けたところ、陽性だと判明して、新規感染者数の増加に加担してしまう人も多くなってきました。しかし、冷静に考えてみれば、何ら驚くことはありません。それに気づかずに無症状キャリアーになってしまっていた人(もともと無症状の人、不顕性感染の人)が、かぜ症状になってPCR検査を受けたら陽性だったという場合も少なくなさそうです。寒さによることにも多い一方で、疲労をためると風邪症状になる人も少なくありません。つまり、「もう我慢できない。」とか「我慢の限界だ。」と結局思ってしまうような日常生活を送ってきた人は、コロナ疲れにさいなまれて、急な風邪症状にあわててしまうと思われます。自他共に、そのような人が少なくないと思って、ちょっとだけ注意してみたらいいと思います。
 次に、コロナ慣れについてですが、これはさらにやっかいな問題をかかえています。上のコロナ疲れと関連がありますが、ここ1年間の私たちのまわりの状況に「どうしても納得がいかない。」という考えを持ってしまう人々が世界的に多くなっているということです。着けていたマスクを人前ではずすとか、スーパーなどのお店へ行っても、そういう人を時々見かけることが多くなりました。「コロナ慣れで、気持ちがたるんできたから、もう一度、気を引き締めてほしい。」と周囲の人々は思っているかもしれませんが、当人は、もっと違う考えを持っているようなのです。私の観察によれば、その人は、これまでは周りの状況に流されて他人の意見に素直に従ってきたものの、「実感のないウィルスやその感染というものに対して、自ら何らかの対策をとることに、どうしても納得がいかない。」と、今になって考えているようです。テレビやネットなどのメディアに接しても、それに影響されずに、不信感のほうが強いように思われます。
 私は、その人が近くにいても、あえて無視することしています。ずるいかもしれませんが、そんな人に下手にちょっかいを出して危害を加えられたくはありません。私は、厚生労働省感染症予防対策に協力したいために、アベノマスクをつけてスーパーやコンビニや農産物直売所などの店に出入りしているだけであって、他に何も理由がありません。それが大人の対応だと思っているだけです。
 そのような不服を心中に持っている人がどうしたらよいか、ひそかにアドバイスいたしましょう。ここへきて納得がいかないのならば、『ウィルス学』や『分子生物学』をとことん勉強すればいいのです。外部から強制されたり、ロックダウンを期待するのは、やはり個人として半人前だと思います。心理学的に考えてみると、あらゆる強制やロックダウンは、昨今の欧米の人々の状況を長い目で見てみるとわかりますが、「納得がいかない。」と感じる人を増やすだけのようです。本人自らの納得がいってこそ、転ばぬ先の杖として、現在も将来も見えなくて感じられない本当の危機を乗り越えられると、ひそかに私は助言いたします。

 

場あたり的でない日本のIT問題

 私は、20代の頃にコンピュータプログラマをやっていました。だから、あえて言わせていただきます。私のかつての職場の先輩たちは、OCRやFAXなどのOA機器のプログラムを開発していました。しかるに昨今では、OCRやFAXがマイクロコンピュータで動いていることも、それが日本人の先人たちの努力によって組まれたコンピュータプログラムで動いていることも、全然知らない輩(やから)が増えているようなのです。FAXなど、せいぜい欧米の電子部品や電子回路を電気メーカーがコピーして市販していたくらいにしか考えていないんじゃないかと思います。
 だけれども、もう少しよく考えて下さい。人工衛星打ち上げロケットの制御装置もそうですけれども、かつては、外国からコンピュータ関連の高度で先進的な技術をそう簡単に入手したりコピーしたりすることはできませんでした。今でもそうであることは、そうした技術を盗んで中国が米国からあれほど憎まれている現状を見てみれば明らかです。このコロナ禍で保健所などの行政機関がFAXなんか使っているなんて時代遅れだ、とおっしゃっている方々に私が申し上げたいのは、以下のようなことです。「あなたがたは、FAXなどの電子機器がどういうプログラムで動いているのか知っていますか。」あるいは「FAXなどの電子機器を動作させるコンピュータプログラムを自作できますか。」ということです。おそらくボーっと生きてきたあなた方には、それさえ不可能でお手上げであることは言うまでもないことでしょう。
 現在のオンライン技術は、インターネットという世界共通の通信網(WWW)の上に成り立っています。もし仮に、インターネットという通信インフラを取り去ったならば、全く成り立たないコンピュータのIT技術です。残念なことに、そのインターネットは日本人が発明したものではなく、純国産の技術でもありません。いわば、外国から借りてきて使うことを許されているIT技術です。したがって、それ自身を日本人ファーストに改変したり、その利権を独占することは、基本的にはできません。そう考えてみると、『日本のIT化の遅れ』ということに関する最近の議論というものは、本質的には、少々場あたり的な感じがいたします。他者の技術に追従するかぎり、『技術的な遅れ』というものは宿命であり、仕方がないことだと言えましょう。でも、悲観する必要はありません。もしも、その技術で他者に先んずれば、他者からのバッシングあるいは制裁が必ず待ち構えているからです。
 ところで、私は、最近になって次のようなこと気がつきました。「日本の行政をオンライン化すること」と「携帯やスマホの通信料金を値下げさせること」には関連があるということです。(私は、仕事上もっぱら『手でワーク』ですが)今やテレワークの社会的普及などにより、オンラインの使用コストは、社会的に増加の一途をたどっていると言えましょう。国民の税金を財源とする行政機関にとってもオンライン化が進めば、通信料金のコストが未来永劫かさむことを看過できなくなります。そこで、これまで外国と比較して高いと見られてきた日本の携帯・スマホの通信料金を下げておく必要があるというわけです。ここで、「日本の行政サービスのIT化やオンライン化が遅れている!」と嘆いて怒った多くの日本国民の方々に、一つ真実らしきことをお伝えいたしましょう。「お役人さんの頭が固かったり、職務上の怠慢がIT化の遅れにつながったのではなさそうです。その本当の原因は、長い間ずっと携帯・スマホなどの通信料金が安くなかったために、オンライン化しようにもコスパの問題があって手がつけられなかったことにありそうです。」と。