非科学的だと言われるかもしれませんが…

 私は、石原さとみさんのファンではないので、『さとみロス』にはなりませんでした。しかし、最近、土曜日の夜の『オトナの土ドラ 恐怖新聞』が終わってしまって、『恐怖新聞ロス』になってしまいました。このドラマの原作は、つのだじろうさんの連載漫画『恐怖新聞』でしたが、私は過去に少年雑誌で2、3話読んだことがあります。当時は、それほど興味がありませんでした。今回私が毎週土曜日の夜に視聴していた、そのテレビドラマは中田秀夫監督の作品で、原作を踏まえた続編あるいは新作という感じでした。
 若い女性の主人公が、次々と送られてくる『恐怖新聞』に恐怖して、周囲の人々を巻き込んでしまう、というのが大体の内容でした。しかし、彼女は、その『恐怖新聞』のルーツと、彼女自身の前世との関わりや、大人たちが『恐怖新聞』を金儲けや犯人逮捕、悪人を懲らしめるために利用することなどを知って、考えが変わっていきます…。
 最近のいわゆる『鬼滅ブーム』の影響でしょうか、結局そのテレビドラマの最終話は『鬼』でカタがついてしまいましたが、私の個人的な好みを申し上げますと、ドラマのオープニングの「音楽と人々の悲鳴」が大好きでした。また、映像の作り方にも好感を抱きました。私の感覚では、テレビドラマの映像の1コマ1コマは、それほど恐怖を感じませんでした。けれども、それらをつなげて観ていくと怖い映像だなと感じました。ドラマの最終話が終わって、最後にメインキャストの若い男女二人の俳優さんが、最後まで見ていただきありがとうございます、みたいなことをおっしゃっていましたが、私は「もっと『恐怖新聞』を見たいのに…。」と思っていました。「『恐怖新聞』は一回読むごとに100日寿命が縮まる。」というのがお約束事ですが、そのテレビドラマ自体を観ても100日寿命が縮まるわけではありませんから、安心して私は視聴していました。
 ところで、つのだじろうさんの漫画というと、『恐怖新聞』のほかに『うしろの百太郎』がありました。この作品も、私は2、3話読んだことがあるだけでしたが、『背後霊』とか『守護霊』について知ることができました。私は、その存在を信じているわけではありませんが、それらを見てしまったという幼い頃の記憶があります。以下に、その経験を述べておきましょう。
 0歳の私は、ある晩、家で家族の一人にあやされていました。その大人の誰かと対面していましたが、その誰かの背後に、いるはずのない何かがいるの見てしまったのです。それで私は泣いていたのですが、その家族の誰かは、そのことに気づかずに、私をあやし続けました。後に私の母の話によると、その時の私は、一晩中、泣きやまなかったそうです。そのうち泣きやんだと思ったら、急にぐったりとしてしまったそうです。そこで、私の祖父は、これは何かおかしいというので、私の父と母に、近くの救急病院へ夜中に私を連れていくように命じたそうです。それで、お医者さんに診ていただいたのですが、私の父と母は、そのお医者さんからひどく叱られたのだそうです。もしも、私が、そのまま家で朝を迎えていたならば、私は命を落としていたというのです。
 実は、私は、自家中毒にかかっていたそうなのです。病院で何らかの措置をしていなかったならば、私はこの世に生きてはいなかったのだそうです。私の祖父は、私の父のすぐ上の兄とすぐ下の弟が、同じく自家中毒で幼い命を失ったことをよく覚えていました。なぜ私が自家中毒になったのかは、今でも不明のままです。しかし、あの時の0歳の私が、死の淵をさまよっていたことは事実だったようです。
 このことを、私は、時折思い出すのですが、私をあやしていた家族の誰かの背後に見えた何かが何だったのかは、今でもわかりません。しかし、その何かの存在が、私の命の危機を知らせに姿を現したことは明らかなようです。公の話ではなく、個人的な、私の心の中の話として聞いていただきたいのですが、『背後霊』や『守護霊』といった霊的なものは、人を死に導くものではなく、逆に人を生かすために現れるものなのかもしれません。
 そのようなことは、現代の科学や科学的技術では否定されてしまう考えかもしれません。けれども、そうした非科学的なものまでもとらえてしまう人間の感覚や考え、すなわち、脳の働きを否定することはできないと思います。もちろん、そのようなことを利用した、サギ商法には引っかからないようにしたいものです。ただ、私は、あくまでもそうした個人的な感覚と記憶だけで十分だと考えているわけです。
 おそらく、たとえ『背後霊』や『守護霊』が本当に存在したとしても、この世を生きている私たちに彼らは何もしてくれないかもしれません。私たちは、彼らに対して何も怖れることも期待できることもない、というのが事実なのかもしれません。つまり、私たちは、何か恐怖や不安を与えてくれるものを考案して、それを常に意識していないと、何となく生きてゆけないものなのかもしれません。
 例えば、最近の例で言えば、テレビで知らされる『新型コロナウィルスの東京の新規感染者数』なんかそうだと思います。それがいきなりテレビで知らされなくなったならば、「えっ?何で?どうして?」と誰もが思うと、私は思います。「感染が終息して、メディアが知らせる必要がなくなった。」という理由が、もし仮にできたとしても、私たちのほとんどは納得がいかないかもしれません。そして、『新規感染者数ロス』なるものになってしまうかもしれません。したがって、私は毎日のその数が、100人になろうが200人になろうが300人になろうが心配になりません。その数を心配するのは、専門家さんたちに任せています。

 

遺書のない自殺について思うこと

 最初に一つだけ述べさせていただきますが、「新しいことに直面して、場当たり的でない人は、この世に一人もいない。」と思います。私は、現政権支持者でも体制支持者でもありませんが、メディアにだって場当たり的な部分は少なくなかったと、私はテレビを観て思っています。新しいことに直面して場当たり的にならないためには、一つの案件を片付けるために5年か10年はかかると思います。そんなことをしていたら、ほとんどの場合は手遅れになってしまうことでしょう。結局私たちにできることは、批判はあくまでも批判として、反省はあくまでも反省として、受け取ることしかないのかもしれません。
 さて、本題に入りますが、ここ最近において、有名人の方々の『遺書のない自殺』の背景が、私には気になりました。あらゆる自殺は、当人不在のため、当人の口からそのワケを聞き出すことはできません。なぜ生きるのがイヤになったのか、なぜ命を絶ちたいと思ったのかを直接当人から答えてもらうことはできません。現在を生きている私たちは、イジメやひぼう中傷を受けたことに、自殺の原因を求めてしまいがちです。もちろん、その考え方や推測で間違ってはいないとは思います。けれども、それだけなのでしょうか。それで、この問題のすべてが解明されたと言えるのでしょうか。その答えはノーです。まだまだ解明されていないことが多くて、その真相にはたどり着けていないと思います。
 これから私が述べることもまた、そうした真相にたどり着いたとはいえないかもしれません。しかし、考えうる一つの可能性、つまり、一つの仮説として示したいと思っています。すなわち、昨今のネットなどのひぼう中傷などで、その厳罰化が叫ばれる一方で、それだけでは解消できない『人間の本性』の問題と関係があります。かつて私は、「人間がひぼう中傷をやってしまうのは生理的なもの」であると、自身のブログ記事で書きました。「ひぼう中傷をやってはいけない。」と、いくら自らに戒めたとしても結局やってしまうのが、普通の人間の性(さが)なのかもしれません。誰でも、無意識のうちに、他者をひぼう中傷してしまうことがあるものです。心理学上、それは少しも異常なことではありません。
 現代では、そのひぼう中傷が、家族や家庭に向かえばDVとなり問題になります。また、対人間関係内で起これば、弱い者いじめになって問題になります。そして、ついには、他人に何を言ってもひぼう中傷と取られてしまうようになります。学校の教師が生徒に何か言ったくらいで、体罰だと受け取られてしまいます。会社の上司が部下に何か言ったくらいでパワハラだと受け取られてしまいます。
 以上の例は、多少極端だったかもしれません。しかし、私たちの脳内では、知らず知らずにメディアからの刷り込みがあって、それが人間性の危機的な状況を生んでいます。すなわち、「自らが発した(あるいは発信した)言葉がどんな言葉であろうと、誰かをひぼう中傷することになってしまう。」と自ら考えてしまう、そういう人が世の中に増えているようなのです。「何を言っても、誰かを傷つけてしまう。」という強迫観念が巣食ってしまい、誰に何も話せなくなるのです。誰にも相談ができずに、その人は命を絶ちます。誰も傷つけたくないために、何も言葉を遺書として残さずに、この世を去っていくのです。
 当然、そんな私の話は出来過ぎている、という批判はあることでしょう。もちろん、そんな私の話をはるかに超える真相が解明されることを、私は願っています。そのような真相の解明で、少しでも多くの自殺志願者が、その命を救われることを切に願っています。

本当に素朴な2つの疑問

  最初に言っておきますが、PCR検査とは、採取した検体から特定の微生物の遺伝子を検出する検査方法です。世間では、新型コロナウィルスの感染を検知するための唯一無二の検査方法のイメージですが、はしか(急性熱性発疹ウィルス)の感染などにも利用できます。もっとも、私ははしかに感染し発症した際にPCR検査を受けてはいません。当時は、検査を受けなくても、流行り病は症状の異常さでわかるものでした。たしか、小児科のお医者さんに行ってはいけないと誰かに言われた覚えがあります。お医者さんの待合室で、他の子供の患者に感染させてしまうからだ、と教わりました。それから2年後に、水ぼうそうに感染発症した時も同じことを言われました。ただし、その時は、体中に豆粒ほどの水ぶくれが多数できて、高熱もあったので、近所の内科のお医者さんに行って、静脈注射で解熱剤を打ってもらい、皮膚の水ぶくれの箇所につける塗り薬をもらった記憶があります。
 さて、『検査と隔離』を原則とする現代のコロナ禍の経済対策について、私は次のような2つの疑問を抱いてしまいました。
1.PCR検査で陰性が確認された者同士は濃厚接触しても大丈夫なのか。
2.PCR検査で陽性が確認された者をすべて隔離できた社会では、あらゆる感染症対策をやめても大丈夫なのか。
これら2つの疑問に共通して言えることは、「PCR検査が絶対的な安心を担保してくれる」という前提に基づいていることです。濃厚接触したい者同士は、その行為の前に検査簡易キットで検査し合えば問題ないということです。また、陽性者がいない生活空間では、新型コロナウィルス感染拡大前の日常に戻ってよいということになります。このようなコロナ禍の経済システム設計について、疑い深い私のような者には、何かが間違っているように思えて仕方がありません。
 今回のPCR検査の拡充劇で唯一明らかになったことがあると思います。すなわち、過去に流行した感染症終息の真相を、PCR検査というサイエンスの眼が暴(あば)いてしまったようなのです。実は、感染症が終息するという状況は、多くの無症状者に『見えない感染』を繰り返していくという状況だったようです。50年前も、100年前も、患者の症状の表層的な診断のみでした。表面的には感染症が終息するように見えて、現在のような社会的不安に陥らなかったようなのです。
 したがって、そうした過去の真相に鑑(かんが)みて、現在の私たち日本人がPCR検査の拡充を社会的に承認するためには、いかなる感情的な判断をも禁じる必要があるということです。感情的になって社会不安をあおった者には、罰金や監禁や勧告などの法的措置をとらなければならなくなることでしょう。この問題には、そういう面倒くさい世の中になってしまう危険性があると言えましょう。
 「経済を回す」という言葉は、響きの良い、かっこいい言葉です。しかし、実際に日々働いている私の感想を正直に申しますと、「今までよりも、もっと働け」というふうに心の奥に響いてきます。確かに、ここのところ毎日が、野菜の栽培と収穫で忙しくて大変です。でも、何か大きなことでダマされているような気がしてなりません。「陽性者がいない生活空間が多くの人たちに安心感を与えて経済を回せる」すなわち「みんな死ぬ気になって仕事に専念できる」というのは、いわば、絵にかいた餅、ならぬ、絵にかいたアンパンであるような気がします。その『絵にかいたアンパン』を経済競争という運動会で、パン食い競争のごとく目の前にチラつかされているのが、現在の私たち庶民の姿のような気がします。
 ここで一つ昔話をいたしましょう。超現代版の『浦島太郎』です。昔々あるところに、浦島太郎という青年が『ステイホーム』という竜宮城から、これまでの日常生活を取り戻すべく、地上に戻ってまいりました。彼はホームシックになっていたようです。夢見心地だった、竜宮城での非日常的な生活にあきてしまい、もう一度、今まで通りの日常生活をしていた我が家のある地上に戻ってまいりました。ところが、そこで彼が目にしたものは、すべてが変わっていました。あたりは見知らぬ人ばかりで、彼のことを知る人は誰もいませんでした。彼は、寂しさと不安に苛(さいな)まれて、玉手箱を開けることに思い至ります。乙姫様からは、出来れば開けないで済ませてほしいと、念まで押されていました。けれども、その誘惑を抑えることはできませんでした。すると、モクモクと白い煙が立ちのぼりました。浦島太郎はたちまちヨボヨボのお爺さんになってしまいました。
 いきなり老人になってしまった彼は、玉手箱を開ける必要などなかったことに、そうなって初めてに気がつきます。そもそも、自らの命を縮める必要など全くありませんでした。過去の日常は『記憶』として心の奥にしまっておいて、見慣れぬ日常に直面していたら「いいじゃん。すげえじゃん。」と思っていさえすればよかったのです。(最近私は、地元のレンタルビデオ屋さんで毎回一巻ずつ借りて『仮面ライダー電王』の本編全巻を観終わりました。平成仮面ライダーシリーズの中でも、後味(あとあじ)の良い終わり方をしていた作品の一つでした。それで、その本編やオープニング主題歌にインスパイヤーされて、その文句や言い回しを借用させていただきました。)
 現在の感染症予防対策は、私たちがイメージしている以上に、強力で安全でかつ有効性があります。ひょっとすると、ワクチンや治療薬など必要としなくても、安全安心を獲得できるのかもしれない、と最近になって私は思うようになりました。「手洗いか、手指の消毒」「3密を避ける」「ソーシャル・ディスタンスをとる」「ヒトとヒトとの対面には、お互いにマスクをする」あるいは「ヒトとヒトとの間を、透明のアクリル板やビニールシートでさえぎる」などなど、様々な感染症予防対策をとることによって、劇的な効果が期待できます。そもそも、集団免疫の考え方は、免疫のある人たちが『壁』になって、感染症弱者を守るというものです。そのヒトの部分をモノに置き換えて、ウィルスの感染を予防しようとするわけです。集団免疫よりも、強力で安全で有効性があるわけです。しかも、現在の感染症予防対策は、新型コロナウィルスがどんなに変異したとしても、その対策の内容を変える必要がありません。しいて言えば、ほかの病原体に対しても有効であり、病原体がこれまでとは全く違うものに変異しないかぎり、その安全性や有効性が失われることはないと思われます。その対策にはムラが無く、感染者と非感染者を区別する必要がないため、そのことによる差別や人権侵害も起こりにくいと考えられます。
 したがって、人類の歴史に残るのは、そのような様々な感染症予防対策であり、PCR検査の拡充のみではないことがわかると思います。ソーシャル・ディスタンスを一つ例にとってみても、そのことはよく理解できます。人間の口から吐き出されたウィルスが、他の人間に感染する前に地面に落ちてしまう距離や間隔のことを考えたものと言えます。地面に落ちた飛沫に含まれるウィルスは、人間に寄生できない限り活性化や増殖はできなくなり、いずれ非活性化し増殖もできなくなって残骸化してしまいます。科学的によく考えられた対策の一つであるわけです。
 私たちは、それぞれの対策を丸暗記して、盲目に従いがちです。しかし、本当は、その意味や意義を一つ一つ理解して、その有効性や安全性に確証を持つべきだと思います。そうすることによって、本来は無用であるはずの不安・不信を払拭(ふっしょく)して、安心してそれぞれの対策を誤用なく実行できるようになることでしょう。感染症を予防する対策をとったものの十分でなかった、ということもなくなるはずです。となれば、そうした様々な感染症予防対策をとる日常空間が、それらの対策をとらない日常空間よりも安全安心なことは、火を見るよりも明らかなことだと思います。そのようにして一つ一つ地道に理解したものは、科学的な知識として大事に記憶しておくとよいと思います。

 

勝手に妄想Go To 学習キャンペーン

 先日、地元の某小学校の1学期の終業式がテレビの取材を受けていました。教室での児童たちは、こんな言葉からこの短い1学期を振り返りました。「新型コロナウィルスは恐ろしい病気です。(以下略)」

 私は、そんな地元のテレビのニュース番組を視聴して、「あれっ?」と思いました。まず第一に、新型コロナウィルスは病気ではありません。感染症を引き起こしますが(つまり、風邪症状や発熱症状を伴いますが)、伝染病ではありません。肺炎や血栓を併発しますが、むしろ病気は肺炎や血栓のほうです。PCR検査が陽性から陰性になったとしても、肺炎や血栓が直ったり、健康になるわけではありません。

 私がわざわざこんなことを書くのは、世間一般の常識や通念が『出口の見えない、厄介な流行り病』程度だと知っているからです。「新型コロナは恐ろしい病気」とみんなが口をそろえて言ったとしても、その国語表現はメタファー(隠喩)であり、大人が間違ったことを教えているわけではないと、私は考えます。私は、一字一句を生活の糧にして、世間との意識の乖離(かいり)に悩む純文学小説家ではありませんから、それを苦にして世間からおさらばする必要もありません。私が、小説家を職業に選ばなかったのは、かくなる理由があったからです。

 でも、もしも私が、彼ら児童の立場だったり、それを指導する先生の立場だったとしたならば、上の一文は、こんなふうに言い換えると思います。「新型コロナウィルスの影響で、世の中の多くの人たちが迷惑をかけられて苦しんでいます。」もちろん、これは、「一番悪いのは、新型コロナウィルスだ。」という世間一般の考えと一致しているものと、私は考えています。

 もっとも、本当のことを申しますと、このウィルス自体にも罪はありません。ここに、私たちの厳罰化主義、すなわち、「何でも厳罰化して事態を解決しようとすること」の盲点と限界があります。何かを厳罰化しようにも、厳罰化できない。それが、人々のイラつきや不安や誹謗中傷の正体です。

 最近、テレビのニュースあるいはニュース情報番組で、「東京から青森に帰省したところ、非難の内容が書かれた1枚の紙切れが、玄関先に投げ込まれていた」というニュースがありました。いろいろなコメントや反響があったので、私も興味をそそられました。ひどいことをしたとはいえ、それをしてしまったのは、ごく普通の人だと、私は思いました。帰省した60代の人はPCR検査を2回受けて陰性だったそうですが、それでも、そのごく普通の誰かは、納得しないと思います。帰省した人の体がPCR検査で陰性であろうと陽性であろうと、つまり、新型コロナウィルスに感染していようといまいと、本当は関係ありません。そのウィルスを帰省の際に『地元に持ち込んでほしくない』というだけのことです。

 しかしながら、そのような考えも、ちょっと変なのかもしれません。『with コロナ』という言葉を忘れているような気がします。あるいは、『新型コロナウィルスとの共生』という言葉の意味が、まだ理解できていないということだと思います。試しに、誹謗中傷してしまった人の身近なところから、検体を採取して、PCR検査にかけてみましょう。おそらく、新型コロナウィルスあるいはその残骸が検出されるはずです。その時点で、即座に『地元にウィルスを持ち込むな。』という主張はアウトになります。

 私がなぜこんなことを申しているのかの、その根拠をこれから示します。今年の4月の上旬と下旬の2回、ちょうどその間に国内では緊急事態宣言が出た頃、私は、発熱症状を経験しました。その頃に、地元のスーパーマーケットやコンビニや農産物直売所に出かけたのですが、風邪症状や具合の悪くなった人たちを周りで少なからず目撃しました。そして、その頃から現在に至るまで、そのような地元のスーパーマーケットやコンビニや農産物直売所では、感染症予防対策のためのさまざまな取り組みがされるようになりました。店頭のガラスの張り紙を見ても、さまざまなお願いが書かれています。「入店の際にはマスクの着用をお願いします。」「手をアルコール消毒液で消毒してください。」「昼と夕方の混雑する時間を避けて、来店してください。」等々、こと細かく書かれています。

 お店のレジに行っても、皆さんの既にご存知の光景が見られます。4月の緊急事態宣言の前後からずっと、このようなことが地元のあちこちで続いているのが事実です。もはや、「県外から地元にウィルスを持ち込むな。」という主張だけでは、世の中は空回りするだけのようです。そのような主張は、今では形骸化してしまった感じすらします。

 そこで、私の提案なのですが、帰省された人には、是非とも地元のスーパーマーケットやコンビニや農産物直売所などを訪れていただいて、さまざまな感染症予防対策がとられていることを視察・学習してほしいと思います。そのようなことは、決してムダにはならないと思います。

感染防止研修ツアーへようこそ!

 皆様、当研修ツアーに参加いただき、誠にありがとうございます。今回は、フィクション(虚構)の力を借りて、新型コロナウィルス感染症予防対策における一つの解決モデルを提示いたしたく思います。現在の最先端の感染症予防対策は、『検査』と『隔離』が大原則であることは、皆様、重々ご承知のことと思われます。規模の違いや、細かな点を除けば、日本もニューヨークもやっていることは皆、同じです。PCR検査で陽性が確認された人は、無症状でも即刻、指定の宿泊施設へ隔離するのが、我々の社会のルールです。そうやって感染拡大を防ぎながら、経済を回していくことが至上命令であることをご存知でしょうか。今どき知らないでは済まされませんぞ。政府や地方自治体や保健所などをあれこれ批判している場合ではなさそうです。
 しかし、それでも、何かが足りないと感じている皆様も多いのではないかと思います。「経済は経世済民のことだから、みんなを不安や不幸や貧困から救ってくれないのはウソだ。」と思っているアナタは、時代遅れかもしれません。つまり、今や経済の原理は、人間の心を踏みにじるものなのです。と言うか、アナタの心の一喜一憂に関係なく、経済は動いていかなくてはなりません。強制するつもりはありませんが、生計を成り立たせるためには、アナタがそんな経済の動きについてゆくしかありません。生きていたかったら、そうしなさい。(結局、命令と強制をしてしまいました。)
 それでも、やっぱり不安な皆様のために、とっておきの机上の(と言うか、ネット上の)架空研修ツアーを企画いたしました。現在の最先端の感染症予防対策が、検査と隔離を順守するものであることを、皆様に承認していただいた上で、現状では、うまくいっていないことは周知のことだと思います。そう、この最先端の対策では、『教育』と『研修』および『啓蒙(けいもう)』が抜け落ちております。だから、どうしても感染拡大が止まりません。いつまでたっても新規感染者は減りません。どんなに検査をしても感染者が見つからなくなる、というドラマチックな展開は、ひょっとしたら永遠に訪れないかもしれません。つまり、それは、空虚な妄想だったのかもしれません。(最近私は、韓流ドラマを観るのをやめました。)
 それでは、当ツアーをご案内いたします。
1.ツアー参加者全員が、感染症予防対策の講義を受けます。
2.ツアー参加者全員が、PCR検査と個室隔離を体験します。
3.2の検査で陽性が確認された人は、感染症予防コーディネーターの個別アドバイスを受けます。
 概要は、以上のとおりです。ツアー参加者全員が、地方の保養所(ホテルや旅館)へ行き、その建物の会議場(大宴会場)に集まります。そこで、感染症の専門家やコーディネーターが1~2時間の感染症対策の講義をします。その後に、すぐPCR検査をツアー参加者全員に行います。そして、各人には個室が与えられます。その窓からは、海や山や川などの美しい自然が眺(なが)められます。待つこと数時間後、PCR検査の結果が通知されます。全員陽性ということにして、何日間か個室の隔離生活を体験します。トイレやお風呂は個室にあるものを使います。一日三度の食事は各個室に届けられ、定期的な検温と血中酸素濃度の測定とノート記帳を経験します。本当に陽性が確認された人は、例え無症状であっても、感染症予防コーディネーターに個別でアドバイスを受けます。テレワークでマンツーマンで相談ができて、アドバイスを受けながら、感染症予防対策を学び直します。「(自分なりに)対策をとったのに、感染してしまった。」という人には、その対策を改善したり、かつての対策の不備な点を気づかしてもらえるかもしれません。そうしたことが、期待されます。
 そして、晴れて保養所の個室から解放される折には、『陽性体験証明書』がツアー参加者各人に手渡されます。実は、これが、社会の価値観を大転換すると、私は考えています。PCR検査の陽性経験者は、もはや社会的差別の対象ではなくなります。また、余計な給付金も必要なくなります。
 さらば、陰性証明。『検査と隔離』研修の修羅場を経験した者こそ、企業が求める人材として引っ張りだこになるかもしれません。いつまでも検査陰性に縛られて、現場で業績を残せない弱腰の人間。それよりも、感染が身近に起っても、適切に感染症対策ができる強気の人間のほうが、経済を回せる可能性があると思います。(それほど、今回の感染症への私たちの不安と恐怖は、私たちの経済をダメにしている、ということです。)いずれ近い将来に、そのような社会や経済の大転換が起きて、感染症対策を自ら進んでできる人にこそ、現場の陣頭指揮を任せられやすくなると思います。つまり、そういう人にこそ、手厚い待遇が期待できるかもしれません。(この話の全ては、現時点では、あくまでもフィクションです。そのことをお忘れなく。)

 

不安と恐怖の中で、今考えたいこと

 最近テレビを観ていると『PCR検査の拡充』と『感染者数の増加』や、『Go to キャンペーン』とその『東京外し』など、それらに対する批判や不安で世の中が満ちているように感じられます。そしてまた、パンデミック医療崩壊危機の第2波が来ているように主張する専門家さんもいらっしゃいます。
 ところで、私たち日本人は、ウィルス学の学者さんの話を聞いて、その知識を理解しているはずです。にもかかわらず、私たちは何も学んでいないようなのです。私たちの心の中の不安と恐怖は、ウィルスというものが『究極の寄生体』であることをわからなくしています。いまだに、新型コロナウィルスの感染が、狂犬病の犬のように『人間に無理やりに、かみついてくるもの』とイメージしている人が多いようです。『ゾンビ』や『遊星からの物体X』のように、人間に襲いかかってくるのが『ウィルスの感染』だと、みんな多かれ少なかれ思っていることでしょう。
 こんなことを申したら、さすがに優等生で良い子の皆様は、ビックリするかもしれません。けれども、現実や真相や真理というものは、大方(おおかた)そんなに複雑怪奇なものではありません。ウィルスに感染力はあっても、ウィルス自体が、人知を超えた驚異的で超自然的な力を持っているわけではないと思います。行政機関の様々な人たちのお願いが、感染防止対策を私たちにお願いしているのは、そのような理由からです。何度もそれを聞かされている私たちは、「そんなことくらいで、ウィルスの脅威から守られるはずがない。」とか「そんなことくらいで、これまで与えられてきた不安や恐怖から逃れられるわけがない。」などと、勝手に判断してしまいがちです。その疑いに、理性的な根拠はなく、感情的なものに過ぎないことは明らかなのですが…。
 私たち人間の一人一人が、自ら生理的にウィルスを吸って、あるいは、ウィルスを吐き出して、他者がそのウィルスを生理的に呼吸して、感染が広がります。または、私たち人間の一人一人が、ウィルスの付いた手で何かを触って、その何かを他者が触って、感染が広がります。すなわち、私たち人間が抱いている『新型コロナウィルスに対する不安と恐怖』は、私たち人間の一人一人の、これまで当たり前だった行動によって引き起こされているものであると思います。決して、そのウィルス自体が人類滅亡を意図して恐怖や脅威を私たちに与えているのではないと、私は思います。そのような感染のシナリオの途中に、『お互いにマスクをすること』や『手洗い』や『消毒液』や『社会的距離』や『透明なビニールシートやアクリル板』などがはさまると、直接人から人への感染が邪魔されます。それも事実だと思います。
 それでは、現在の日本で何が起きているのかを推測してみましょう。私の意見(持論)は、こうです。日本の行政機関は、新型コロナウィルスの封じ込めを行いました。しかし、このウィルスの感染拡大は、私たち一人一人の涙ぐましい我慢と努力があったにもかかわらず、日本全国に広がってしまいました。ただし、このウィルスは、主に人間の体内でしか増殖(活性化)することができず、人間の体外では時間の経過と共に物質化(不活性化)してしまいました。あるいは、このウィルス自体がたんぱく質とリボ核酸(RNA)に分解してしまい、その大量の残骸が日本中あちこちに散らばってしまったと考えられます。
 ここで、また、ウィルス学者さんの知識をお借りいたしましょう。ウィルスは、『生物と無生物との中間に位置する生命体』なのだそうです。生きている(活性化)のか、死んでいる(非活性化)のかすらわからない、他の生物に寄生して生物のように増殖するかと思えば、消毒液や胃酸で分解(不活性化)して、たんぱく質やリボ核酸(RNA)やそれらの『かけら』すなわち残骸になって、物質化してしまう。と、そのように私は理解しています。
 したがって、私はこう推測します。PCR検査は、ウィルスの遺伝子を調べて、検体に当該のウィルスがいるかどうかを調べることができます。ただし、そのウィルスが活性化しているか不活性化しているのかはわかりません。だから、連日感染者数が増大しても、新型コロナウィルス自体が私たち人間の体内で異常に増殖しているのか、それとも、増殖していない不活性化した物質になってしまったのかまではわからないことになります。ゲノムを解析してRNAの変異などが確認されない限り、後者の状態であることが濃厚であると言えます。不活性化したウィルスの残骸が、ヒトとヒトとの感染を繰り返している、という可能性も考えられると私は思っています。
 しかし、だからと言って、油断は禁物です。ウィルスは、ただの物質に変化したとしても、人体に対して異物であることに変わりはありません。抗体や免疫ができない限りは、人体に害を及ぼすことに違いはありません。ですから、これまでの感染症状(せきや発熱など)が出なくなるわけではないと思います。別の例として、化学物質のアスベストが肺がんなどを引き起こすことを、是非とも思い出してほしいと思います。
 以上いろいろと理屈を述べてきましたが、私がこうしたことを述べ出したことには、それなりの理由があります。東京都で感染者数が段階的に増え始めた3~5日後に、私が生活している地方でも、何か空気がホコリっぽく感じられるようになりました。確かに、私の周りでも、風邪気味の人が一時、多かったりしました。しかし、それを全て、新型コロナウィルスの感染のせいにするのは、やはり恣意的で不安なものを感じます。なぜならば、発熱症状は私にはみられず、心拍数の異常な上昇もみられなくなりました。最近、風邪気味の人から何度も目の前でゴホンと咳(せき)をされて、何らかの病原体を移されたはずなのに、私の体に異常は認められません。咳が全く出ないわけではありませんが、それほど咳をすることが多くなったわけでもありません。そして、テレビなどのメディアでは知ることのできない何かを感じ、考えたりしています。例えば、ウィルスが不活性化して物質化することを考えると、その残骸がモノに付着して、モノとモノとの接触感染(付着)を繰り返して、日本中もしくは世界中の、あらゆるモノに付着してしまいつつあるとも考えられます。しかし、それはずっと未来になってから研究成果が発表される未来の感染症学が扱う事柄なので、未来の歴史を変えないためにも、私はここで筆を置くことにいたしましょう。

 

 

心や感情を持ったAIの悲劇

 上映当時、かっこよすぎる予告編としてYouTubeなどでも有名になった『EVA』というスペイン映画を、今回は扱ってみようと思います。私は、レンタルビデオ屋さんからDVDを借りて、この映画の本編を観てみました。ロボットに感情を与えるプログラミング技術が、ビジュアル的に美しく映像化されていて、サイエンス・フィクション的な内容をしばし忘れてしまいます。しかし、結局この映画が扱っている重すぎるテーマに私は気づかされました。
 その映画の主題が、人間とAIの感情の問題を扱っているだけに、人によっていろんな感想や意見を抱くことになるとは思います。あるいは、「映画の予告編がかっこよすぎた」ために、何かサスペンス的なものを本編を観る前から期待して、見事にその期待が裏切られたという人も少なからずいらっしゃったことでしょう。「何だ。人間とAIとのやり取りが上手く行かなかっただけのことじゃないか。」とわかって、そこには国家的なスパイの陰謀とか、絶対的な悪魔の存在とかがあるわけでもなくて、この映画を観てがっかりしてしまったという人も少なからずいらっしゃったかもしれません。
 この映画のそうした「もやっ」としたところを、私は読み解いてみたいと思いました。現代の私たち誰もが、AI搭載ロボットなどに抱いている「もやっ」とした夢や希望の一つが、「AIが人間と同じような感情を持つこと」だと言えます。
 その『EVA』という映画では、ロボットに人間的な感情をプログラミングすることを研究している研究所のある町が舞台として描かれています。そのような研究機関で働いている研究員とその家族の、人間関係のドラマが描かれます。そして、『EVA』と呼ばれる少女の秘密が、そのドラマの最後に明かされます。ただそれだけのストーリーなのですが、そのような特殊な日常環境に置かれて苦悩する研究員(あるいは元研究員)の人たちの言動があまりに人間くさくて、壮大なファンタジーや大活劇を映画に期待していた観客は、ちょっと拍子抜けしてしまったかもしれません。
 しかし、私たちの将来に、AIやロボットの進歩を夢見ている人や、AIが人間に近い感情を持つことに興味がある人には、必見の映画と思われます。是非とも、この映画を鑑賞されることをお薦めいたします。この映画は、『EVA』という少女やその家族の悲劇を描いてはいますが、決して、AIが進歩する未来を批判や否定したり、誰が真犯人で悪いのかということを追及しているわけではありません。それよりも、人間の心あるいは感情がいかに『やっかいなもの』であるかを気づかせてみせてくれます。ヒューマン・ファーストに走りがちなヨーロッパで、このような内容の映画が制作されたのは異例なことかもしれません。
 ロボットなどの機械に、人間の心や感情と同じようなものを身につけさせた場合、この映画の劇中では、とんでもないことが起こります。人間とロボットの間が共にいらいらした不安定な関係に陥り、ロボットは人間に暴力をふるってしまい、人間はロボットをシステム・ダウンさせてしまいます。人間の側から見れば、ロボットがシステム・エラーを起こしたと考えます。一方、ロボットの側から見れば、人間が不安やパニックや強圧的になって理不尽なことをやり始めたと認識します。つまり、人間の心や感情というものが、いかに危(あや)ういものであるか、ということを、この映画は訴えているわけです。私たち人間の心や感情が不安定になる、その元凶は、私たち自身の心や感情のうちにある、ということなのです。
 そして、この映画で描かれている事件から、私たち人間は、次のようなことを教訓として学ばなければなりません。私たち人間は、AI搭載ロボットに人間の心や感情を抱かせることに成功したあかつきに、大きな反省を強いられます。ロボットが、自らを人間であると思い込んで誤認してしまった、その一生涯に対して責任を負っていくことが、私たち人間の免れない義務となってしまうのです。
 重ねて申しますが、人間の心や感情ほど、危(あや)うくて『やっかいなもの』は他にはない、と思います。ロボットなどの機械に、人間の心や感情を抱かせたいと考えることそのものも、私たち自身の『孤独への不安』や『寂しさの感情』から生じているだけのことなのかもしれません。残念なことに、誰の心からも、そのような何らかの不安な感情を消し去ることは(一時的に、だますことはできたとしても)決してでき得ないことだと思います。