お盆と盆踊り大会

 毎年この時期、つまり、8月15日前後の旧盆の時期になると、夕方から夜にかけてのきゅうりの収穫と箱詰めの作業中に、地元で開かれている盆踊り大会の音楽が聞こえてきます。それを聴きたくなくても、自然に耳に入ってしまうというのが現実です。私の作業場の近くに公民館があって、その公民館の前の駐車場で盆踊り大会が今年も開かれていました。
 その公民館の近所では、夜になって音楽が大音響でうるさいので盆踊り大会をやめて欲しいという意見もありました。しかし、都会に行ってしまった息子さんや娘さんが、お孫さんを連れて一年に一回お爺ちゃんお婆ちゃんの実家へ戻ってくる良い機会なので、地元の自治会も公民館の職員もこのイベントをやるべきだと判断しています。ですから、この盆踊り大会は近所の協力のもとに行われています。
 毎年私は、作業場でその盆踊りの様子を聞いています。私自身の仕事が忙しいため、その盆踊り大会に参加したことはありません。こっちは仕事中なのに、うるさいなと思いつつも、公民館の職員のアナウンスや、盆踊りの音楽として流される様々な日本の民謡を、毎年その日一晩だけは大音響で聞いていなければなりませんでした。
 私は、小中学生の頃から、日本の民謡が大嫌いでした。音楽の授業などで「エンヤートット。」と『大漁節』を唄わされた時などは、内心こう思っていました。「都会生まれの自分が、将来漁師になる予定もないのに、何で漁師の労働歌を学ばされて唄わされなきゃいけないのだろうか。」私は、そのような『大漁節』を唄うことに恥ずかしさを覚えました。「エンヤートット。」が漁師のかけ声であることを先生から教わりましたが、その言葉の意味不明さが恥ずかしくて、日本の民謡が大嫌いになりました。イギリス民謡やアメリカ民謡は唄うことに少しも抵抗が無かったのに、こと日本の民謡となると若い私には受け入れ難いものになっていました。
 つまり、そうした毎年の盆踊り大会で日本の民謡がどんなに大音響で流れても、私は無関心でした。日本の民謡なんて大したこと無い、と思っていました。
 ところが、今年の私は違います。耳に入る音楽の一つ一つが気になり始めました。「月が出た出た。月が出たぁ、ヨイヨイ。」の『炭坑節』。「エンヤーコーラヤット。ドッコイジャンジャン、コーラヤット。」という意味不明の歌詞や「はー、それからどうした、ほらさっさ。」みたいな合いの手がある『北海盆唄』。「踊り踊るならば、ちょいと東京音頭、ヨイヨイ。」と東京ではなく地方で唄われる『東京音頭』。「めでためでたの、若松様よ。枝もチョイチョイはえて葉も茂るぅ。ハァ、ヤッショーマカショ。」と意味不明の合いの手が入る『花笠音頭』。そのほかにも、『佐渡おけさ』や『大漁節』や『ソーラン節』(海が無くて山ばかりなのに、なぜか唄われます。)、『ドンパン節』や『八木節』などなど、日本各地の民謡のオンパレードが続きました。その伴奏は、太鼓(たいこ)や三味線や琴(こと)の調べでした。そしてまた、全ての曲はその奏法やリズムに違いがありました。
 このように私の関心が高まった背景は何だったのか、私なりに考えてみました。すると、きっとそれに違いないという原因が見つかりました。それはmusica japonesa(ムズィカ・ジャポネーザ)にありました。なぜか、いきなりポルトガル語ですが、この言葉はYouTube動画サイトで見たメリッサ・クニヨシちゃんの動画の中で知りました。ブラジルでは、日本の音楽または日本の唄の意味で使われるようです。私は、その本質が何なのかを探ってみました。
 メリッサ・クニヨシちゃんが唄う『ハナミズキ』や『瀬戸の花嫁』などを聴いてみるとわかるのですが、その曲の伴奏に太鼓や三味線や琴などの和楽器の音色が意識的に挿入されています。然るに、これらの曲の日本人の演奏する伴奏には、これらの和楽器が使われていません。ブラジルでは、日本という異国のテイストを表現するために、あえてこれらの音色を伴奏に入れているのです。日本の音楽を聴きたい人のニーズを考えるならば、このやり方は正しいと私は思います。
 それでは、なぜそのような曲のアレンジがブラジル人にできて、日本人にはできないのか。そのことを考えるのは、重要です。その理由を私に言わせて頂けるならば、こうだと思います。私が日本の民謡を唄うのを恥ずかしいと思ったのと同じように、日本の流行歌などの伴奏にそういう音を入れるのが恥ずかしいからです。子供が唄うならばいざ知らず、そんな伴奏で大人が唄うなんて恥ずかしく出来ないからだと思います。
 しかし、盆踊りのために流される日本の民謡には、太鼓や三味線や琴などの和楽器の音色がちゃんと使われています。現代的な日本の音楽を聴いて、ムズィカ・ジャポネーザと違うとガッカリした人(特に、そう思った外国人の方)は、そうした日本の民謡を聴いてください。日本人は、古いからといって全て捨ててしまうような、薄っぺらな国民でないことがわかると思います。
 そこで、なぜその『古き良きもの』が今の日本に残っているのか、その背景を説明しましょう。これから私が話すことは、現代の日本人の通説ではありません。しかし、幾つかの根拠から導き出されるか、または、想定される範囲内の結論であることに間違いはありません。
 まず、『お盆』(仏教では、『うら盆』と言います。)ですが、日本人の私たちはこれを仏教の行事として当たり前のように受け入れて、何も変わったことが無いように日常では感じています。ご先祖様を送りお迎えして、家で一緒に過ごすというこの行事を、日本人は誰でも抵抗無く受け入れています。
 しかも、このお盆の時期には、必ずと言ってもいいほど地元の自治会の主催で盆踊り大会があります。しかも、それは宗教色を離れて、スーパーの屋上駐車場などで行われることもあります。『盆踊り大会』は、大会であるにもかかわらず、踊りの優劣を競ったりすることがありません。簡単なルールさえ守れば、老若男女の誰でもが踊りの輪に入ることができます。普通の服装で飛び入り参加が可能です。つまり、日本風フォークダンス(Japanese folk dance)と言えます。
 その簡単なルールとは何かと申しますと、踊りの輪に入ったら、周りで踊っているいずれかの人の動きに合わして踊ることです。つまり、自分勝手に動いて踊ると、ほかの踊っている人に迷惑がかかります。農耕民族のしきたりを受け入れて、みんなが一糸乱れぬ同じ動きをしてこそ、連帯感が生まれて、盆踊りとして全体的に成り立つというわけです。
 したがって、この『盆踊り』の正体は夏祭りの一種であると言えます。神仏の影響がなくなり、すなわち、仏教や神教などの宗教色がなくなり、町や村の自治会という小さなコミュニティを単位として、国家権力から何の伝統文化としての保護も受けずに、現在も自発的に行われている『民間伝承』なのです。私たち日本人の大部分は、この一連の行事が日本だけで行われている『民間伝承』であることに気づいていません。奇異なことかもしれませんが、私たち日本人は、同じ東洋人である中国や韓国の人たちも『盆踊り大会』を知っていると思い込んでいるのです。ところが、彼らには『盆踊り大会』をやるという風習自体がありません。
 日本の『盆踊り大会』を知らない彼らが、日本人を甘く見ているのは確かなことです。過去に経済発展をしたことを除けば、大した取り得も無い、アジアの人種の寄せ集めくらいにしか見ていないのかもしれません。天皇や国家や政府などの権力に依存しなければ、この人たちはバラバラで何のまとまりも無いから、つけいるスキがあると思っているのかもしれません。
 ですから、中国や韓国の人たちも含めて、外国人の方たちには、まず、日本の民謡や盆踊りといった、日本の風習をもっとよく知ってもらいたいのです。その上で、日本人との付き合い方を真剣に考えて欲しいのです。私たち日本人の側も、それを踏まえて毅然(きぜん)として彼らと相対(あいたい)していいと思います。
 さて最後に、今回私は、盆踊りについて替え唄を作ってみました。ピンキーとキラーズの『恋の季節』の替え唄で、『お盆の季節』というナンセンス・ソングです。


    『お盆の季節』


忘れられないの 盆踊り大会
太鼓たたいてさ ちょうちん見てたわ
涼しい浴衣着て うちわを手に持って
縁日に出かけた お金も無いのに


それは日本の風習 ご先祖様と 孫のため


日本の民謡を 流して踊ってる
不思議な夏祭り お盆の季節よ


 とまあ、こんな感じです。盆踊り大会には、なぜか縁日の屋台がつきものです。それは、何かを買わなくても、見てまわるだけでも楽しいものです。それで、替え唄の中に、書き加えておきました。