『君が代』を別の角度から考える

 私は、私の誕生日が国旗制定の日ということもあって、日本の国旗について少しばかり関心があります。けれども、私は日本の国旗や国歌について特別な感情を持っているわけではありません。よく、日本の国旗国歌は昔の軍国主義の象徴であったとか、中国・韓国・北朝鮮・東南アジアに対する戦争責任が日本国民にはあるとか、ということを10代の頃に学校で教え込まれてきました。そんな私は、戦後の一般的な、そうした反戦的な考えで教育された一生徒にすぎませんでした。(ちなみに私の名前などは国の男と書きますが、そんな私自身は見かけ倒しで大したことはありません。)
 しかし、それらのことを今になってよくよく考えてみれば、日本の国旗(日の丸)と軍旗・軍艦旗は見た目のデザインが同じではありません。国歌だって、後で書きますが、もう少し違った角度から見ることができます。日本国民に戦争責任が無いとは言えませんが、事実はそんなに単純ではなさそうです。戦後日本は戦争の責任賠償を相手国にしてきましたが、そこまで補償しなくても…、と思われることもあったと思います。
 国歌の『君が代』は、私もそうでしたが、あまり好きな歌ではありませんでした。でも、卒業式などでは普通に歌っていましたし、特別な抵抗感はありませんでした。儀式に臨む時に心が引き締まる歌であり、人前で歌ってはずかしい歌ではありません。フランスの国歌などは歌詞が残酷で良くありませんが、『君が代』は短い和歌のような歌詞で、内容もふわっとしたあいまいな感じで良いのではないかと思います。
 そのメロディー(旋律)は雅楽に由来します。私たちの日常で耳にするのは、神前結婚式などでBGMとして流れるあの音楽です。ですから、厳(おごそ)かに重々しく歌うよりも、本当は雅(みやび)な感じで気高く歌えると良いのかもしれません。決して、音楽的には外国のものと比較してひけをとらないと思います。
 ただし、この国歌の歌詞に関する従来の解釈は、あまりに固定的な感じがして、時代に合わないような気がします。これでは、終戦直後に天皇陛下昭和天皇)が人間宣言をなされた意味が、国の主権を有することになった日本国民に伝わっていないのではないかと思います。天皇陛下は、私たちと同じ血の通った人間なのです。しかも、世界各国からの外賓の方々には、日本国民の代表として応対されております。
 また、『君が代』が国歌としてどうしても抵抗を感ぜざるおえなくなるのは、その歌い方のムードにあると言えます。その歌詞の意味するところが、戦前では当たり前だったが今の時代に合わない世界観(もしくは、国家観)にとらわれているために、この『君が代』という歌から連想される不信感、すなわち戦前の軍国主義が高揚されているのではないかという不安感が、現代の国民的観点から生じます。従って、『君が代』を強制されて、イヤイヤ歌わされているのを聴けば明らかなように、この歌の厳粛な雰囲気が誤解されて、険悪なムードの歌い方になります。厳(おごそ)かな曲調が暗い雰囲気に変わって、その歌い手を失います。
 私は、この歌の現代的な解釈を考えるべきだと思いました。TPOを考えると、学校の入学式や卒業式などの厳粛な儀式の場では、従来の歌の解釈で良いと思います。しかし、それがこの歌に関する唯一の解釈とすることは、この曲自体の寿命を縮めます。この歌をめぐっても、右翼思想の人と左翼思想の人とでは考えの相違があります。おのおのの信条の自由があって、民主主義の世の中ではどちらも尊重されるべきものでしょう。けれども、『君が代』という歌自体にも「千代に八千代に」歌い継がれていく自由と権利があると思います。
 もしも、『君が代』が軍国主義のための歌とするならば、どうしても矛盾があると思います。(ここからは、私の持論です。)私が子供の頃には、誰もが知っている『軍艦マーチ』は既に軍隊の戦意高揚の意味を失っていました。東京の私鉄の駅のそばの、パチンコ屋さんのBGMになりさがっていました。それを耳にして、再び戦争を起こそうなどと考えた人はいませんでした。『君が代』もまた、はっきりした意味をわからないまま、ただ国歌だから歌っているうちは問題はありません。学校の先生はいろいろと勉強しているので、この歌が軍国主義に利用された天皇制に縁の深い歌であると自ら学んだり、平和主義を説く大先生に教えてもらったりして、知識を持っています。けれども、そのように学(がく)があることが、かえって『君が代』という歌を偏った見方で理解することになった、ということに気がつけなくなるのです。
 第一、この歌は国歌とはいえ、戦前戦中当時『臣民』と呼ばれていた日本国民が軽々しく歌える歌ではなかったはずです。天皇陛下を『君』と称するのは、この和歌を詠んだ高貴な方(貴族)ならともかく、庶民にとっては違和感があったはずです。某国の『将軍さま』という呼び名のほうがよっぽど納得できます。天皇陛下のことを『君』などと呼んだものなら、憲兵さんや軍人さんに横っ面をひっぱたかれたはずです。当時、天皇陛下は『神さま』であると学校で教えられていました。学校に小さな社があって、そこにご神体が祀(まつ)られていて、天皇陛下はそこにおわすと教えられたそうです。そして、天皇陛下のことは『神さま』と呼ぶように先生から教えられていたそうです。(戦中時に小学生だった、私の母の談による。)
 この『君』という言葉には、主君や天皇の意味しかないように思えます。けれども、少しばかり儀礼的な場から離れた時は、普通の『君』の意味にとっても良いのではないか、というのが私の提案です。「似て非なるもの」の誹り(そしり)を受けるのを覚悟で申し上げますが、この『君が代』の歌詞の理解を助けるものとして、私は一青窈さんの『ハナミズキ』の歌詞を参考にされることをお勧めします。(歌詞のくわしい説明は、割愛します。)
 結局それで私は何がわかったかというと、『君が代』の歌詞には『誰かのために、もしくは何かのために我慢をして頑張る自分』が隠れているということでした。短い歌詞なので、それに気がついても『滅私奉公』だと人によっては見てしまうかもしれませんが、そのように明確に表現されていないので、上に述べたような現代的な解釈が可能だと思います。
 例えば、サッカーで外国のチームと戦う前に、儀礼としてこの『君が代』をこんなふうな解釈からイメージして歌えば、思った以上に勇気が出ると思います。もちろん、その『君』は天皇陛下だけではなくて良いのです。彼の家族でも、親しい友人でも、恋人でも、知り合いでも、チームメイトでも、会社の同僚でも、恩師でも、母校の人たちでも、地元の人たちでも、日本の国民全体でも良いわけです。きっと誰かのために、もしくは、誰かが応援してくれるために、自分は頑張れるんだ。と思うわけです。
 従って、『君が代』は、厳(おごそ)かな雰囲気で歌うのももちろん良いですが、少しばかり明るく希望を持って快活な感じで歌いたいものです。そうしたいと思っている人も少なくないと思います。特に、若い人たちに歌い継ぎたいならば、曲のイメージを破壊しない程度の適度なアレンジが必要だと思います。才能ある日本のミュージシャンで誰かが挑戦してくれると良いと思います。