お寺の鐘と風鈴と…

 前回の私のブログ記事で、『発想工学のすすめ』という本の中で、著者の森政弘氏がお寺の鐘と風鈴の例を挙げて『精神的機械』とはどのようなものであるべきかを説明されていました。「お寺の鐘や風鈴は、それそのものに便利さや生活必需品としての実利性はありませんが、人間の精神(心)に働きかけて、それを豊かにしてくれる」と私は要約して書きました。しかし、誰もが『発想工学のすすめ』というこの本を読んでその内容を知っているわけではありません。お寺の鐘や風鈴が、なぜ『精神的機械』という発想に結びつくのかということへの説明が少なかったと思います。その補足になる説明を今回はしたいと思います。それと合わせて、私の意見を付け加えておきたいと思います。
 著者の森政弘氏によると、「昔の道具にはずいぶん精神的なものがあった。」として、お寺の鐘や風鈴をその例に挙げてこんなふうに述べられています。お寺の鐘の音を聞くと気持ちが落ち着くし、風鈴が鳴るだけで暑い夏でも涼しく感じられる。お寺の鐘も風鈴も、そのしくみや構造は単純素朴で何のからくりも無いのに、人間がその音を聞くだけで、それを含めたまわりの情景をイメージできるくらい心になじんできます。例えば、風鈴一つで、夏のイメージのすべてが想起されます。人間が作った道具として、それらの物を著者はこう絶賛しています。「それらは、私はたいへんな発明だと思う。いま、あれだけのものをつくれといわれても、とてもできない。」とまで、著者の森政弘氏は述べています。
 著者の言うところの「人間が心を養うための補助となる機械」であることが、『精神的機械』にとって重要な点です。機械が人間の心をじかに養ってしまうとすると、その便利さや必要性に人間が頼りすぎてしまいます。そんなふうに機械に依存してしまっては、心を養うことへの自発性が失われてしまいます。機械はあくまでも、人間が自発的に心を養うことを外から助ける(補助する)ものでなくてはなりません。
 そんなふうに言うと、何か難しいことを要求されていると感じられるかもしれません。けれども、「昔の道具にはずいぶん精神的なものがあった。」とこの本の著者が言われるように、身近な道具を見ればそのヒントが得られるかもしれません。この本では、獅子おどしのメカニズムを応用して作られた機械の例が紹介されていました。
 ところで私は、岡野薫子さんの『桃花片』(とうかへん)という物語を国語の教科書で読んだことがあります。『桃花片』の水滴(硯用の水差しのこと。)にまつわる話です。主人公の楊(ヤン)が陶芸家として大成した後にこの陶器に出会って驚きの体験をするラストシーンは、ちょっと忘れられないものでした。ネットで探してみたら、この物語のあらすじや感想が載せられているのを発見して、私はうれしく思いました。
 子供時代の楊は、もっといいものを作ってみたくないの、と日常のありふれた焼き物(価格の安い茶碗やお皿など)ばかり作っている父親に言います。彼は、価値の高い芸術品(高価で、色鮮やかな飾り皿など)を作ろうと志を立て、ついに芸術家として皆から認められるまでになります。或る日、名器が見つかったという知らせを受けて、彼はそれをじかに見て確かめます。そして、その水滴(硯のための水入れとも言います。)が、彼がいまだ到達していない域にあるものであることを見定めます。それは、それを使う人の手にしっくりときて道具として使いやすいばかりでなく、使う人の心をなごませる物でした。しかも、それが彼の父親の作った物であることがわかって、さらに楊はびっくりするというお話でした。
 人によって様々な感想があると思います。私の感想としては、楊のお父さんってすごいなあ、と思いました。本物の価値やそれを作った人の実力って、作った物が芸術品だから高いとか、日常品だから低いとかってことでは決められないのです。また、別の見方をすれば、陶芸家として自らが世間に認められたことへの疑念を抱く楊の姿から、道を極めることへの深さを感じさせる話なのかもしれません。
 前にも書きましたが、機械というものは、便利である反面、害をもたらすこともあります。その実用性ばかりを過信してはいけません。また、人間の心を養い育てるものであっても、それは人間の自発性を奪うものであってはなりません。それに関して人間を補助するものにとどまらなくてはなりません。そう考えてみると、現時点で『精神的機械』と呼べる類(たぐい)の機械は見当たらない。そう考えるのは、ある意味で妥当なことかもしれません。
 しかし、現時点であえて私が言うのならば、テレビは『精神的機械』となりえるかもしれない、ということです。私は子供の頃、学校の先生や親からこんなふうによく言われたものです。「テレビばかり見ていると頭が悪くなるよ。」テレビでは、番組もコマーシャルも次々と流れるように続いていきます。視聴者が立ち止まって考える暇(いとま)もなく、画面が次から次へと変わっていきます。彼らの言葉は、テレビ画面にばかり注意がまわって、自ら思考しないこと(思考停止状態)が多くなるということへの心配から出てきたものでした。けれども、現実には四十六時中テレビから離れないわけではなく、必要な時間に見ているだけです。何か情報やアイデアを得たり、そのきっかけを得たいがために、テレビを見ることだってあると思います。テレビにかぎらず何を見ても、何も考えないし何も感じないことのほうが恐いと思います。
 つまり、テレビでニュース(報道)やドラマやバラエティ等々、何を見ようとも、その情報を適度に消化吸収できれば、かえって物事をいろいろと考えるきっかけになると思います。それが、人間の精神(心)を養い育てることにつながると私は思います。