私のプロフィール アグリターン基礎研修生としての一年間(第一回)

 私は、現在の長野県上田市に就農する前に、小諸市長野県農業大学校という所で一年間、農業に関する基礎研修を受けていました。『アグリターン』と言うのは、『アグリカルチュア(農業)』と『リターン(人が戻ってくるという意味)』の合成語で、当時、長野県知事だった田中康夫氏が考案したと伝えられている、なんとなくクリスタルな言葉でした。IターンやUターンで、信州の故郷に人が農業をしに戻ってくるというイメージを描いた言葉だそうです。
 そのアグリターンの支援として、30代から50代の県外からの就農希望者に長野県農業大学校でおおむね一年間、農業に関する基礎的な研修を受けさせて、その期間内に就農先を決定するというプログラムがありました。今から8年前、農業に全くつながりが無かった私は、長野県主催の農業フェアに参加して、就農コーディネータの先生に、このプログラムを利用するよう勧められました。私は、長野県に兼業農家の親戚がいっぱいいましたが、ある理由から私の希望は完全に無視されてしまいました。よって、長野県のこのシステムを利用して農業を始めようとしたのです。
 ところで、2月に小諸へ行って、びっくりしました。私は、親に連れられて過去に何回か長野県に行っていますが、冬に訪れたのは、5歳の時以来でした。学校の寮の一室に仮に住むことになったのですが、朝が寒くて、窓の二重ガラスに氷の結晶がついているのを42歳にして生まれて初めて見ました。標高1000メートル以上の場所だったので、石油ファンヒータを標高に合わせて設定しなおさないと、点火してくれないことも初めて知りました。
 そして何よりも驚いたのは、私の来る半年前からここで寝泊りしている先輩が居るというので、その先輩に初めて会いに行った時のことです。彼は、茨城県出身の、原発で働いていた元エンジニアで、りんご農家になりたいという希望を持って、長野県に来た32歳の男でした。りんご農家の婿養子になることが決まっていて、そこの家の保育士のお嬢さんと付き合っていましたが、それでも研究熱心で長野県中を車で出かけて、各地のりんごを調べて回っていました。私より10歳年下とはいっても、この学校では一応先輩ですから、彼の見学スケジュールに何回かつき合わされました。先輩の彼に運転してもらって、レタスで有名な川上村とか野辺山とかに連れてってもらいましたが、雪で真っ白な高原が広がっているだけで、巨大なトラクター以外は何もありませんでした。また、お嬢さんとデートするための上着が欲しいからとの理由で、上田市のショッピングモールまで車で一緒に行かされたこともありました。
 後でわかったのですが、私よりも先にこの学校を卒業した人たち、つまり、私の先輩は30代が圧倒的に多く、懇親会などで出会うと、年下の人たちばかりでした。でも、学校では彼らは先輩なので、私は言葉遣いがどうしても、後輩っぽくなってしまいました。見た目にみんな二十歳以上の大人なんだから、年の差なんか考えなくていいんだな、とこの頃から私はだんだん思うようになりました。
 3月に入ると、今度は関西から来た52歳のおっさんが私の後輩になりました。大阪のAコープ(スーパー)の店員だったそうです。(奥さんは、キャリアウーマンで東京の外資系の銀行で働いているそうです。)10歳年上でも、私にとっては後輩なのです。学校内のことを聞かれても、相手が相手ですから、先輩風を吹かせるわけにはいきません。といって、かしこまって遠慮することも、相手が関西人だけに失礼に当たることを知りました。
 4月にはいると、30代から50代の新しい研修生が10人くらい入ってきました。独身者、単身で旦那だけ、果ては、夫婦までいました。私からすると、彼らは皆後輩に当たりますが、年齢がそれぞれ違うので、相手に応じて態度を変えるのが、結局面倒くさくなりました。それにみんな、いい大人なので、30代の年下の人たちも、私に対して全く遠慮がありませんでした。まだ、この頃の私は、農業をするだけの体もできていなくて、ひ弱に見えたからでしょう。まだまだ心と体が元気で丈夫な若い人たちからは、かなり目下に見られていました。
 また、短大レベルの20代前後の学生たちも、100人位いました。私たち基礎研修生は、若い学生たちと一緒に教室で授業を受けました。若い学生たちは、私たちよりも元気なはずなのに、授業中よく居眠りをしていました。先生が熱心に授業をしている最中に、机にうつ伏しているのですぐわかりました。学生たちのほとんどは、農家の子息でしたが、親の後を継ぐ者はほとんどいないそうです。それよりも、JAの職員や研究員、食品加工関係の会社へ就職を希望する者がほとんどだと聞いています。その辺が、私たち基礎研修生とのやる気の違いだね、と私たちは納得していました。
 このように、いろんな年代の人たちに囲まれて、私は一年間、学校で基礎研修を真面目に受けました。私たち基礎研修生の相談に乗ってくれるコーディネーターの先生たち(実は、長野県の職員)も、私と同じ年であったり、年下であったりしました。でも、容赦なく、厳しいことを言われたり、客観的なデータに基づいて、農業に関する厳しい現実を突きつけられたりしました。こんなに厳しい現実があっても、それでもあなたは農業がしたいのか、と問い詰められたこともありました。
 私は、そんなに言わなくてもいいじゃないか、と初めは思っていました。でも、何ヶ月か、県の職員である彼らと話しをするうちに、農業を志すことをやめさせたがっているのではないのだということが私にはわかりました。どんなことでもそうですが、何も始まらないうちは、自分自身が本気でやれるかどうかはわかりません。いざ始まってから、あれが自信がない、これが自信がないでは困ってしまいます。それを確かめる意味で、あんなにきついことを彼らからいろいろ言われたのだ、ということが私にはわかりました。彼らにいろいろ言われたからといって、私は農業をやめようと思ったわけではありません。でも、いろんな困難があることがその時わかりだしてきたのも事実です。今から考えると、そのことがかえって現在の仕事や生活にプラスになっていると思います。
 このように考えてみると、私は、この基礎研修の段階で、今までの私の人生には無かった経験を始めたと言えます。この話は、かなり重要なことを含んでいると思われますので、またの機会に続けたいと思います。