ドラマの楽しみ方 『小公女セイラ』

 昨年テレビで放映された『小公女セイラ』というドラマは、いろんな見せ場のあるドラマであると、私には思えました。けれど、このドラマを一つの作品として見た場合、視聴者の側の反応が今ひとつ低かったような気がします。誰もが、いじめは悪いこと、という一般的な命題にとらわれて、そこから立ち直れたら幸せが待っている、めでたしめでたしと感想を持ってドラマを見終えたことと思います。黒田セイラちゃんが頑張って、成長できてよかったね、という好意的な意見も多かったと思います。
 その結果、主役の志田未来さんの演技ばかりがほめられて、このドラマの本当に面白い部分が、視聴者の側に余り伝わっていないような気がします。ドラマの本質的な部分が十分に評価されていないと私は思いました。従って、私は、志田未来さんの作品の一つとして、この『小公女セイラ』を応援しようと考えました。
 例えば、黒田セイラはなぜいじめられたのでしょうか?
 いじめはいけないことと、日本人の誰もが思っていながら、現在の日本で、このドラマを見て誰も不思議に思わないのはなぜなのでしょうか。私は、黒田セイラがいじめられて初めてわかりました。憲法基本的人権の尊重とか何とか言っても、結局いじめを我々は肯定しているのです。
 真里亜や三村千恵子を悪い人物として否定して忘れることは、誰にでも簡単にできます。しかし、黒田セイラがいじめに耐える姿は、誰の心にもイメージとして残ってしまうのです。そのイメージをいやなものとして排除したくなる。忘れたくて言いわけを作る。こんなことは、日常当たり前のことだ。ドラマでわざわざやる必要もない。小さな子供たちは純粋だから、セイラちゃんを応援してるけど、大人が見るほどのドラマではないな、というのが大人の正直な感想だと思います。
 それならば、このドラマを一つの芝居として見ればいいのです。その楽しみ方の一つを、私の独断と偏見でこれからご紹介しましょう。
 私の大好きな本の一つに、福永武彦著『愛の試み』(新潮文庫)があります。この作品は、昭和31年に河出書房より刊行されました。私が生まれる前に作られた作品が文庫本になったのですが、なぜか私はこの本と出会いました。『愛の試み』というタイトルのすぐ裏のページに書かれている「夜われ床にありて我心(わがこころ)の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」と言う文句が気になりました。十代、二十代、三十代、そして、つい最近までの私が、すごい寂しがり屋でしかも悲しい過去の記憶に縛られていたことに原因がありました。毎晩一人で寂しく寝床の中で、昔好きだった人のことを思い出しては、枕を涙で濡らしていました。私は、本当につらかった。どうにもならない、つらさなのです。
 ある日、『小公女セイラ』を見ていたら、こんなシーンがありました。舞台装置も何もかも片付けられて何も無い舞台の上で、黒田セイラが使用人の服のままジュリエットの一人芝居をやるのです。舞台照明も消されて、ほとんど真っ暗です。本当ならロミオ役の男性が倒れているはずなのに、そこにロミオはいない。黒田セイラは、姿のないロミオにかがみ込んで接吻をする仕草をします。私の目は、これこそ「我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」の状態であると確信しました。劇中劇による、愛の試みのリハーサルのように思えました。
 また、別の日に『小公女セイラ』の最終回を見ていたら、こんなシーンがありました。ミレニウス女学院をカイト君が去ってしまった後、光の射し込む屋根裏部屋で、黒田セイラが一人で「頑張ろうね、カイト君。」と言います。これが、『我心の愛する者をたづねし』セイラの姿であると思いました。セイラのこの台詞こそが、愛を試みる言葉なのです。
 自分の好きなあの人が、自分の目の前にはいない。その人のことを、一人で思う。ということが、「我心の愛する者をたづねしが」という愛の試みなのです。好きな人と別れ別れになっている、という悲しい運命に立ち向かい、その運命を何とかして切り抜けていこうとする人間の強い意志に貫かれた行為なのです。
 運命によって孤独になってしまったことに対する、人間としての反抗が、この愛の試みによってなされます。それはまるで魔法をかけられたかのように、人の心を強くするのです。
 このシーンをオンエアで見た時、志田未来さんは「私は女優だよ。何があっても、私はこれで生きてゆくんだ。」という感じで、この強い意志をうまく演技されているなあ、と私は感心して思いました。ただし、視聴者の多くが、この直前のキスシーンに気をとられすぎて、この大事なシーンを拍子抜けして見てしまったのではないかと、私は後で残念に思いました。芝居の大切なシーンは、気を抜かずにちゃんと見ておきたいものです。