私には『友情』が感じられない

 勘違いされたくないので、最初にことわっておきますが、私は世の中の人々の『友情』とか『愛情』とかを全く否定しているわけではありません。自由にやってくれ、と言いたいくらいです。私が日常的に孤立している意味は、なるべく他人から恨まれないように憎まれないように、つまり、他人に迷惑をかけないようにしているだけです。別に寂しがる理由でもなければ、他人を傷つけたり、あるいは、自殺などをする理由にもなっていません。
 今回私が一番言いたいことは、太宰治さんの小説『走れメロス』の感想についてです。私がこの小説を中学2年の国語の授業で学んだのは、1974年くらいの頃だったと思います。クラスの担任で、しかも国語の担当であった30代なかばの女性の先生が、この小説の主人公の心理描写を分析して、それをくわしく黒板に書いていたことを、私は今でもよく憶えています。その先生の言われるのには、この小説の作者(太宰治)は、主人公メロスの心理描写によって『人間の弱さ』というものをあばいて表現しているのだ、ということでした。私は、そのことを聞いて、すごく感動しました。それまでの私は、文章の読解力が無くて、その国語の授業や試験が苦手でした。しかし、その先生のこのような話を聞いて、小説などの文学書を読むことが好きになりました。それをきっかけにして、私は、太宰治さんのほかの小説を次々と読んでいきました。中学校の図書館から太宰治全集を一冊ずつ借りて、一人で家のこたつなどで読んでいた時期がありました。
 太宰治という作家は、日本の太平洋戦争の戦前・戦中・戦後を生きた小説家でしたが、その作品を読んでみると、アナーキー無政府主義的)な作風でした。しかも、晩年は、自殺未遂や自殺をしています。愛人と入水自殺などをしていますから、そんなに誉(ほ)められたものではありません。私の印象としては、彼は、人の手本になるような人間ではなかったと思われます。(なのに、なぜか日本の小説家として、日本の国語の教科書に載っていますが…。)
 また、作品に関しても、『人間失格』や『斜陽』などを読んでみたのですが、当時思春期だった私には、正直言って面白くありませんでした。何の感動も無かったと、言ったほうが正しかったかもしれません。それ以来、私はそれらの小説を二度と読まなくなりました。
 しかし一方、『走れメロス』や『女生徒』『雪の夜の話』などの彼の小さな作品については、今でも興味があります。これらの作品は、子供向けの文学全集などに載せられていることがあるので、一般に目に付きやすいかもしれません。それはさておき、私には、どうしても気になって仕方がないことがあるのです。
 ここ20年か30年のうちに私は知ったのですが、『走れメロス』は、『友情』をテーマとした小説だ、ということでした。国語の学習参考書を読んでも、そう書いてあります。単純に考えてみて、中学2年の私が、そのことを当時の国語の授業で学ばなかっただけのことかもしれません。確かに、この小説が友情をテーマとしていると考えるのは正しいことです。そう断定することは、正しい読み方です。試験に出れば、100点満点の大正解です。
 しかし、私は、ここで少しだけ異論を申し上げたいと思います。「この小説のテーマは友情だ。」とひとくくりにしてしまうのは、文学上で一番残念な結果を招きます。それは、思考停止と同じで、文学が現実には全く役に立たないことを証明してしまうのです。実は、私は、この『走れメロス』という作品をいくら読んでも、この作品からは『友情』が感じられません。「これが『友情』というものなのだ。」と、作者が太鼓判を押して主張しているとはどうしても思えないのです。(注・もちろん、作者太宰治は、この作品について別の場で、青春は友情の葛藤であると述べてはいますが…。)
 「それでは、なぜ暴君は、二人の若者の友情を目にして、悪から善に心変わりをしたのか。その友情が人として美しかったからではなかったのか。」という一般的な意見が当然あると思います。しかし、私はそうではないと思います。「暴君が心変わりしたのは、主人公のメロスもまた、心に醜く汚い面を持っていたからであり、それなのに、それが導く運命を自身の意志で変えてしまったことに驚いたから。」というのが、私の答えです。もちろん、これは、人生で大事な何かの試験の正解なんかではありません。つまり、そんなことを答案に書いたら、エリートなんかにはなれないかもしれません。
 しかし、「いかなる英雄であっても、美点だけではありえない。」そして、「人間である以上、美しいものだけを見て生きていくことは不可能。それと同じくらい、醜いものも見て生きていかなくてはならない。」という真実にもとづくならば、私のそのような風変わりな解答も、少しは現実に光を当ててくれるかもしれません。

 

 

もしもソ連が攻めて来たならば…

 ソ連なんてとっくの昔に崩壊したじゃないか、と思っている人は、今回の私のブログ記事を読む必要は無いと思います。私の見方では、社会主義共産主義の制度的な行き詰まりが、国家経済の危機を招いて、ソ連崩壊につながったと観ています。よって、現在のロシアや中国は、資本主義的な利点をうまく取り入れて、その経済危機を乗り切ってきたので、あのソ連崩壊のような失敗は二度と起こさないと、私は思っています。
 ところで、私が二十歳になった頃は、周囲の大人たちから、酒の席で一度ならず聞かされることがありました。「もしもソ連が攻めて来たならば、若いお前たちは武器を持って戦うか。」と聞かれるのです。もちろん、私は、その30数年前に日本がアメリカに無条件降伏して、戦争放棄して、旧日本軍が武装解除し解体したことを知っていました。いわゆる『戦争を知らない子供たち』として、平和の歌を口ずさみながら、これからは戦争の時代ではないという社会の空気の中で育てられてきました。ところが、二十歳を過ぎたとたんに、周りの大人たちからそんな言葉を浴びせかけられました。酒の席とはいえ、親戚の叔父さんや学校の恩師から、そのようなことを問われては、その都度私は少し違和感を抱きつつも、無言でうなづいていました。
 歴史的なことを申し上げますと、その30数年前の日本は、アメリカに無条件降伏して、戦争放棄をしました。ところが、日本がそうしたにもかかわらず、ソ連はその後も侵攻を続けて、いわゆる現在の『北方領土』を軍事的に占領して、それを日本国から奪いました。それ以前にも、ソ連軍は、満州国に一方的に進攻を始めて、多くの日本人を捕虜にして、シベリア送りにしました。そうした一連の経緯から、戦後の日本人のソ連に対する脅威というものが生まれて、当時あのようなことを問いただす日本の大人たちが少なくなかったのだと思います。
 私は、この件については、肯定をしたとしても、否定をしたとしても、悲観的になってはいけないと思います。こんな平和(?)な世界において、武器をとらなくては生きていけなくなるのか。あるいは、自由を奪われて、何事も我慢しなければならなくなるのか。どちらにしても、不安や不満が消えることはありません。しかし、ここは感情論に走らないで、あくまでも冷静に対処することを、私はお奨めしたいと思います。現時点では、やや曖昧(あいまい)な言い方で申しわけありませんが、その上に立っての自主性に、自他共に期待したいところです。

洋画を観るのはムダではない

 最近、スピルバーグ監督の最新作『ウエストサイド・ストーリー』が上映されるという情報を知りました。スピルバーグ監督といえば、『未知との遭遇』『E.T.』『インディージョーンズ』シリーズや『A.I.』などにみられるように、SFやSFXっぽい映画の監督のイメージだったと思います。そんな監督が、なぜアメリカ版『ロミオとジュリエット』的なミュージカル映画を今回制作されたのか、と不思議に思う人も少なくないと思います。
 そんな人のために、私は一つの説を示しましょう。かつて1961年に公開された『ウェストサイド・ストーリー』は、ロバートワイズ監督によるものでした。ロバートワイズ監督といえば、『アンドロメダ...』というSF映画の監督としても有名でした。つまり、ロバートワイズ、スピルバーグ両監督は、共に『ウエストサイド・ストーリー』というミュージカル映画を手がけていながら、SF映画も手がけていると言えましょう。それは両監督にとって、宿命と呼べるものだったのかもしれません。これは、あくまでも私の憶測の域を出てはいませんが、少なくとも私にはそう思えて仕方がないのです。

 ところで、その『アンドロメダ...』(1971年公開)という映画の原題は”The Andromeda Strain”でしたが、当時はその’Strain’を邦題に訳すことがうまくできなかったようです。新型コロナウィルスのパンデミックが起きた現代だからこそ、’Strain’を変種とか、変異株という日本語に翻訳して意味が通じます。けれども、当時の日本はそうではありませんでした。私が日曜洋画劇場でこの映画を観ていた頃は、「ウィルスの変異株」などと言っても、一般的には何が何だかわからず理解されなかったと思います。つまり、『アンドロメダ...』というのは、仮に現代的に日本語に訳すと『アンドロメダ変異株』だと思いました。デルタ株やオミクロン株くらいにコロコロ変異して、それだけ危険なウィルスがこの映画に登場する、というふうな意味が付加されて面白いと、曲りなりにも私は思っていました。
 しかし、今回改めて映画の内容を観ると、そんな私の憶測とは全く違うものでした。地球上の生物と成分は同じものの、アミノ酸とは全く違う構造の結晶体型生命体でした。それが自力で増殖する、つまるところ、地球上の生命体とは全く違う『変種』で、宇宙細菌、すなわち、地球外に生息している『菌株』生命体として描かれていました。だから、『アンドロメダ宇宙変種菌株』が、映画のタイトル訳としては相応(ふさわ)しいわけです。けれども、それでは、研究所内でその正体をあれこれ探っていくドラマの緊迫感がなくなってしまいます。「何が何だかわからないウィルス的なもの」という意味を匂わせて、『...』としたほうが映画的な謎と凄さを観客・視聴者に与えられると意図したことがうかがわれます。なお、ハヤカワ文庫SFの翻訳小説(1976年出版)のタイトルでは『アンドロメダ病原体』とされていたそうです。
 映画の本編では、その『アンドロメダ...(the Andromeda strain)』と呼ばれる宇宙菌株が、最初から何が何だかわからないために研究所内を混乱させて、人類を滅亡に導くほどの大惨事を招きそうになります。それを一つ一つの科学的な検査と考察をもとに解消していく科学者たちの努力と苦労が劇的に描かれます。その間にいろいろあって、映画の最後の最後までわからないストーリー展開となります。当番組を解説の淀川長治さんも、「この映画を最後までご覧なさい。」などと、おっしゃっていらしたと思います。

 本ブログ記事の主旨を、元に戻しましょう。このSF映画を観たことのある人は、そのロバートワイズ監督が『ウエストサイド・ストーリー』というミュージカル映画の制作をも手がけていたことに、一種の不思議を感じたはずです。もちろん、ジャンルに縛られない自由さと言ってしまえば、それまでです。しかし、そうではなくて、アメリカ的なフロンティア精神(開拓者精神)からすれば、そのようなことは、むしろ当たり前で茶飯事のことだったのかもしれません。それが当たり前すぎて、そのせいで取り残されるのは、日常生活に意識が固執しがちな私たち庶民のほうばかりなのかもしれません。

 さて、日曜洋画劇場に言及したついでに、もう一つの近未来SF映画を紹介いたしましょう。『ミクロ決死圏』(1966年公開)という映画です。この映画の原題は”Fantastic Voyage”と言います。『奇想天外な探検旅行』とでも訳せると思います。’voyage’などというと、普通は、宇宙旅行とか惑星探査や探検など、未知の世界を求めて地球の外へ向かいがちです。ところが、この映画では、小型潜水艇とその乗組員たちを極秘に時間限定でミクロに縮小して、血管などの人体内を通らせるという、まさに奇想天外な内容のストーリーでした。赤血球や白血球、神経などの各種細胞や、血小板や抗体などの物質などが、劇中で巨大化あるいは凶暴化して登場します。もちろん、彼らと潜水艇は異物の侵入と見なされて、白血球や抗体などの免疫機能から襲われます。
 少し話が脱線しますが、最近の私は、行きつけの歯医者さんで歯と歯茎の治療を受けました。その時に使われたのが、レーザー光線のメスでした。この映画の劇中でも、患部にレーザー光線を照射して、焼き切って破壊するなどというシーンがあります。すなわち、映画は想像上の空想世界であっても、そこで登場するのは、実際の科学技術や科学的知識に基づくものだということです。
 また、この脱線のついでに、もう一つ述べておきます。私は、前々回のブログ記事で、人の免疫機能について書いてみました。、高校生物の学習参考書を頼りに勉強してから、私なりにまとめてみたわけです。しかし、机上の理屈あるいは絵空事(えそらごと)としてではなく、あくまでも現在の確からしい科学的知見をもとに、現在わかっているかぎりの知識の範囲で考察をすすめてみました。そのおおもとのイメージとしては、『ミクロ決死圏』のような映画の影響が少なからずあったと言えましょう。すなわち、人間の体内を探査・探検するようなつもりで、その免疫のメカニズムを追っていったと見なしてよいと思います。

 以上、今回は、『アンドロメダ...』と『ミクロ決死圏』という2つの映画を私が過去に観ていたことを述べてみました。いずれも、テレビの日曜洋画劇場などにおいて、それぞれ何度か観ていた映画作品でした。繰り返し観ていたわりには、全体のあらすじをよく覚えてはいません。幸い、最近では、地元のレンタルDVD屋さんで借りて鑑賞することができます。こうした映画は、全体のあらすじを覚えるよりも、一つ一つの映像シーンから抜粋して、見所を発見することに関心が向きます。
 そして、いずれの映画についても言えることは、映像化が困難な内容を表現するために、映画撮影という手段によって果敢に挑戦していることです。もちろん、フィクション(虚構)ですから、科学空想的あるいは妄想的な部分も、あってしかるべきでしょう。でも、最も肝心なことは、観客や視聴者を刺激して、イメージ化と共に生ずるその『好奇心』を育てることにあると思います。そこに、この手のSF映画が大衆映画となりうるわけもあると言えましょう。したがって、この手の洋画を観ておくことは、誰にとってもムダではないと、私は思います。

様々な不安や疑念に打ち克つためには

 日々、私が自戒していることは、「数値の変化に一喜一憂しない。」ということです。たとえば、『毎日発表される新規感染者数』なんかもそうです。そんな折りに、ちょうど良い例がありました。昨日の長野県の新規感染者数が、過去最多となりました。普通の見方をすれば、その数が収まりつつある他の地域もあるなかで、「何をやっているんだ。」と思って怒る県民もいるかもしれません。しかし、私は、地方局のニュースで「クラスター(集団感染)が多発している。」という情報を知って、その増加の原因がわかりました。長野県では、クラスター(集団感染)の発生が増える時に、新規感染者数が著しく増えることが、これまでも何度かありました。市中感染で混乱しているわけではなく、クラスター(集団感染)が追えているのだな、と思いました。それで安心しているわけではありませんが、過度に心配をする必要もないのかな、と思いました。
 この時期、陽性率が高い地域もあって、心配している人も多いと思います。PCR検査をしたほとんどの人に陽性が確認されるために、不安になって、信じられないと感じている人が少なくないと思います。しかし、私は、それに対してこう考えます。PCR検査を本当に必要としている人、すなわち、医療から見逃されて重篤化されてしまう人にも、十分検査が行き届いているから、陽性者数/被検査者数=陽性率が高くなっているわけです。決して、ウィルスの感染力が激増したり、人々の感染症対策に緩みが生じていることが、その主な原因ではないと思います。後者のそれらが原因であると思うことによって、互いに人間不信に陥ることのデメリットのほうが、ことのほか大きいと思います。
 日々の数値に一喜一憂せずに、冷静に対処していけば、個々の小さいことはそれほど困難な事態ではないことがわかります。それを踏まえて、昨今の、ワクチン追加接種の問題を考えてみましょう。なぜ、日本国では、3回目のワクチンの追加接種が進んでいないと言われているのか、という問題を考えます。制度や段取りの上で、上手く進んでいないとか、接種を受ける側の考えに問題があるとか、いろいろ指摘はされています。その中でも、私は、これまでの2回のワクチン接種を受けた側の、ある意識に注目して考えてみました。
 mRNAワクチンは、接種した人々の90%を超える人々に効果があると当初から言われていました。ところが、最近の情報では、時間の経過と共に抗体量が下がって、さらなるワクチンを接種すると格段に抗体量が上がって、だから、ワクチン追加接種が効果的なのだ、とにかく早めにワクチンの接種を済ませて欲しい、というふうにメッセージが伝えられていました。
 これに対して、2回のワクチン接種を受けた側は、たとえば、このように思ったはずです。「ワクチンを接種したのに、抗体がそんなに短期間に減ってしまうなんて何ごとだ。それじゃあ、結局、ワクチン接種をしなかった人とそれほど変わらないじゃないか。私は『裸の王様』じゃないし、実験台の『モルモット』でもない。もっと完全なワクチンなり薬なりを作ってから、アナウンスしてくれないと困るよ。」などと愚痴を漏らす人も少なくなかったはずです。ワクチンに対する不安や疑念をふり払えない、それに明快に答えてもらえないことへの『もどかしさ』が感じられる意見だと思います。
 そういう思考回路の人ほど、「ロックダウンだろうと、緊急事態宣言だろうと構わないから、より完全な強い権力によって、多くの人を巻き添えにして大きな犠牲を払ってでもいいから、コロナの問題を即刻解決して欲しい。そして、一日も早く日常を取り戻したい。」というふうに考えがちです。その焦りと完全主義を望む傾向は、社会的な不安や疑念と共に、世論調査にしばしば事実として表れています。
 しかしながら、この世の中に、学校の試験じゃあるまいし、完全完璧な正解などありません。なぜならば、たとえ願いは一つであっても、その願いを実現する道筋は人の数ほどあるからです。ですから、上に述べたワクチン接種に関する言い分も、ある意味では、もっともらしいのです。けれども、別のある意味では、もっともらしくないと言えます。その件に関しては、是非とも、私の前回のブログ記事『人の免疫機能について学ぶ』を読んでいただきたいと思います。
 今回のmRNAワクチンの追加接種は、現在のオミクロン株の感染拡大以降の先を見据えても有効だと、私は考えております。だから、本当のことを申しますと、私の場合は、急ぐ必要はないのです。自治体が正しく判断して、接種券を送ってきてくれたならば、何の迷いもなく、自ら進んでワクチン追加接種を受けるのが、私の考えです。つまり、感情志向よりも科学志向のほうが強いのが、私の考えと言えましょう。

人の免疫機能について学ぶ

 mRNAワクチンは、どうして効果が高いのか。その問いから出発して考えてみることにしました。基本的な知識から申し上げますと、ワクチンは一般に、特定の病気にかかるのを予防するために使われます。したがって、病気になってから使われる治療薬(普段、私たちが『薬』と呼んでいる物)とは区別されるのが普通です。病気に対する抵抗性を獲得させるために、ほとんどの薬はその症状を緩和させます。その薬を服用して、逆に症状を悪化させる場合は、逆効果だとして、その薬の使用を中断したりします。しかし、ワクチンの場合は、感染症などの予防のために使われるために、ある程度の副反応がないものは、逆に効き目がなかったりします。それは、なぜでしょうか。さらにまた、ワクチン接種(あるいは、追加接種)の効果として、抗体量を増やすとか、感染を抑制するとか、一般に言われています。けれども、それらは、ワクチン接種(あるいは、追加接種)の個々の結果にすぎません。ワクチン接種の本当の目的は、各人の免疫機能を発達させることのはずですが、なぜそのようにアナウンスがされないのでしょうか。これらの疑問に答えるために、私はまず、免疫機能について学ぶことにしました。私は、大学受験で生物の試験を選択して、医学部に合格して、エリートのお医者さんとなることを目指すために利用される、定価『本体2500円+税』の学習参考書を参考にして独学で勉強することにしました。

 人の体内の免疫機能には、自然免疫と、獲得免疫(適応免疫)があります。胃酸や粘膜などの生体防御に対して、病原体(つまり、抗原)が体内に侵入した場合に働くのが、それらの免疫機能です。実際には、前者の自然免疫をかいくぐった病原体に対して働くのが、後者の獲得免疫(適応免疫)です。しかし、これらの免疫は個々に独立して働いているわけではありません。たとえば、後者の獲得免疫(適応免疫)でできる『抗体』が、単独で働いて、病原体(つまり、抗原)をやっつけることはできません。必ず、前者の自然免疫のマクロファージや樹状細胞に病原体(つまり、抗原)を食べてもらって、処理されます。つまり、自然免疫と獲得免疫(適応免疫)とはタッグを組んで働いてこそ、有効なのです。
 まず、自然免疫についてですが、『白血球』として一般には知られている好中球は、異物を取り込んで共に死にます。それが集積すると、膿(うみ)になることが知られています。これもまた、『アメーバ状の白血球』として一般に知られているマクロファージや、樹状細胞にも、異物の食作用があります。さらにまた、ナチュラルキラー細胞(NK細胞)といって、病原体を直接殺す作用を持つものも自然免疫としてあります。しかし、それらはいずれも、免疫を記憶することはできず、行き当たりばったりで作用するため、病原体(抗原)に量的あるいは質的に対応できない場合も出てきます。
 そこで、『免疫』として一般に知られている獲得免疫(適応免疫)の出番です。既に書いたように、自然免疫をかいくぐった病原体(抗原)に対して働きます。特定の病原体(抗原)に対してのみ有効な『抗体』というものを作り出します。その『抗体』は、病原体(抗原)と結合して、その活性を抑える(不活性化する)ことによって(抗原抗体反応)、マクロファージなどに食処理させやすくします。
 そこにもっていくためのメカニズムをなるべく簡単に述べておきましょう。病原体(抗原)を食べたマクロファージや樹状細胞は、ヘルパーT細胞に抗原の断片を伝えます(抗原提示)。そのヘルパーT細胞の側は、T細胞レセプターという細胞膜のタンパク質で、その抗原提示を受けます。また、そのマクロファージや樹状細胞からはインターロイキンー1(IL-1)という物質が分泌されて、その抗原提示を受けたヘルパーT細胞の増殖を促し活性化させます。そのように増殖したヘルパーT細胞からは、インターロイキンー4(IL-4)という物質が分泌されてB細胞の増殖を促し、かつまた、インターロイキンー2(IL-2)という物質が分泌されてキラーT細胞を活性化させます。
 さらに、今度は、抗原をB細胞レセプターという細胞膜のタンパク質で取り込んだB細胞が、ヘルパーT細胞に抗原提示します。すると、そのヘルパーT細胞から、上述のIL-4という物質が分泌されて、その刺激を受けたB細胞が分裂・増殖して、さらにいわゆるプラズマ細胞に分化するものが出てきます。そして、その分化したB細胞が、抗体を産み出して、それを血しょう中に分泌します。これが、世間一般に知られている『抗体』というものです。その『抗体』は、可変部と定常部が結合して、そのアミノ酸配列からY字のさすまたのような形で描かれることが多いようです。これも、既に述べたように、その可変部が、特定の病原体(抗原)と結合しやすくなっていて、抗原抗体反応を起こして、その活性を抑えます。さらに、多数の抗原抗体の結合によって、大きな複合体が形成されて、がんじがらめとなることで、病原体(抗原)の活性が抑えられたりもするようです。
 以上が、獲得免疫(適応免疫)のうちの、体液性免疫のメカニズムのあらましです。確かに、抗体を産み出したB細胞は、寿命が短くて、すぐ死んでしまいます。ということは、抗体は消耗していって、時間が経つにつれて半減し、やがて激減してしまいます。これは、実際に、ワクチン接種後の抗体量の追跡調査で明らかになったとおりの事実です。
 しかし、それで終わりではありません。増殖したB細胞やヘルパーT細胞の一部は、抗体を産み出すことには参与せず、次の同じような病原体(抗原)の侵入に備えて待機しています。それを『記憶B細胞』や『記憶ヘルパーT細胞』と言います。つまり、時間の経過と共に抗体量が激減しても、『記憶B細胞』や『記憶ヘルパーT細胞』は残っているわけです。そして、2回目以降の同じ病原体(抗原)が体内に侵入すると、前回よりも非常に速く、しかも大量に抗体を産み出すことができます。このような現象を「免疫記憶が形成されている」と言うのだそうです。
 だから、ワクチンの追加接種が、擬似的な病原体(抗原)の再侵入であるとするならば、そのブースター効果は、ワクチンの薬物効果なんかではなくて、かくのごとく免疫機能を生かした『当たり前の現象』なのです。世間一般の人々が、ワクチンの追加接種に踏み切れないのは、そのような自然科学的な知識を全く知らないからだと思います。つまり、ワクチンに対する人々の不安や疑惑を真摯(しんし)に受け止めて、説明していく力がお偉いさんに無いから、こんなことになるのです。でも、これ以上は、愚痴になるから、やめておきます。
 さらに、それだけに終わりません。獲得免疫(適応免疫)には、上に述べた体液性免疫のほかに、『抗体』が関与しない細胞性免疫があります。上に述べたB細胞の代わりに、キラーT細胞を当てはめて、その働きのメカニズムをご想像ください。ただし、キラーT細胞は抗体を作りません。だから、抗体量の増減は全く関係がありません。また、キラーT細胞は、病原体(抗原)に感染した細胞をアポトーシス(プログラム細胞死)に誘導するための、たんぱく質酵素などの物質を持っています。それを使って、病原体(抗原)に感染した細胞を殺すわけです。既に述べたようにヘルパーT細胞から分泌された物質によって、キラーT細胞も増殖します。その一部は活性化せずに、『記憶キラーT細胞』として残ります。もちろん、増殖したヘルパーT細胞の一部も残りますから、次回の抗原の侵入では、より速やかな細胞性免疫が期待できます。すなわち、『抗体』とは関係なく、この細胞性免疫においても、免疫記憶は形成されるのです。

 私が今回の独習で利用した学習参考書には、炎症や発熱について、コラムが載っていました。それを簡潔に述べると、次の通りです。(私たちの体は)異物の侵入によって、局所の細胞から警報物質が分泌される。その警報物質によって血管が拡張して、血流が増加して、局部が赤くはれたり、熱をもつようになる。神経が刺激されて、痛みを生じる。そのような炎症反応により、水ぶくれができたり、好中球やマクロファージなどのいわゆる白血球が、毛細血管から炎症の箇所に移動してくる。また、マクロファージからインターロイキンという物質(サイトカインの一種)が分泌されて、白血球などの細胞を増殖させたり、脳の体温調節機能に働きかけて、全身の体温を上昇させる、等々の内容でした。
 つまり、私たちが日常的に『発熱症状』と呼んでいるのは、病気そのものではありません。かくのごとき体のメカニズムによって、病原体の侵入を警告していると考えるのが正しいわけです。それは、ワクチン接種後の発熱も同じです。私の手元の学習参考書には、そのコメント内容として次のようにも書かれています。「風邪をひいて発熱したときに安易に解熱剤を飲んで熱を下げると、せっかくの自然免疫が抑えられてしまう危険性がある。素人考えでむやみに薬に頼るよりも、暖かくして安静にして寝ているのが一番かも。」
 そうはいっても、熱があるとだるいし、風邪を治したい気分もなえてしまう。その辛いのを我慢できないから、いち早く解熱剤に頼ってしまうのも人情としてわからなくはありません。しかし、このコロナの流行時期に、私的に解熱剤を服用して熱が下がったからといって、PCR検査のために外出したら、その道なかばで容体が急変した人の例もありました。それは決して、新型コロナウィルスに飛び抜けた毒性なんかがあったからではなく、人の免疫機能の一つである発熱症状を誤解していた可能性が強いと思います。そうであると、ここまで読んで下さった皆様にはおわかりのことと思います。

 

”Everybody Wants To Rule The World”の日本語カバーに挑戦する

 ”Everybody Wants To Rule The World”という楽曲は、ティアーズ・フォー・フィアーズTears for fears)というイギリスの男性二人組が1985年あたりに発表した楽曲の一つと言われています。私も、その頃に、夜中のテレビでやっていたビルボード・ヒットチャートという番組をたまたま観ていました。その番組の中で、彼らの楽曲の紹介PV(プロモーション・ビデオ)を観ました。
 この曲のタイトルを直訳すると、「誰もが世界を支配したがっている」という穏やかならぬフレーズが気になりました。しかも、曲中で何度もそのフレーズが力強く繰り返されるので、戦争や独裁者のイメージが浮かんできます。ところが、PVではそんな感じは微塵もなく、疾走するオープンカーや競技用バイク、大空を滑空するグライダーや、楽しそうにダンスをする2人の黒人のお兄さんたち等々、伸び伸びとした雰囲気の映像が続きます。
 その楽曲の歌詞とPVの余りにかけ離れたギャップが、私には長い間、ナゾでした。ところで、今回YouTubeで私が見つけた日本語訳付きの動画には、「誰もが全てを 思いのままにしたいというのに」という柔らかなニュアンスで訳されていました。
 もちろん、”Everybody wants to rule the world”という一文を「誰もが世界を支配したがっている」と直訳の意味で理解することは、間違ってはいません。一方、この歌詞フレーズを「誰もが全てを 思いのままにしたいというのに」と意訳するのも間違いではないと思います。PVを視聴して、かつ、歌詞全体を読んでみると、後者の訳のほうがイメージ的に広がりがあって、文字通り思いのままに、すなわち自由に翻訳できそうに私には思えました。
 つまり、もっと言えば、次のような文の仕組みになっていると思います。英語的には、”wants to rules the world”(世界を支配したがっている)という部分にこだわっていると、強権的で独裁的ですが、その頭に主語として’Everybody’が付くことによって、「老若男女の誰しもが、そうしたい気持ちがある」という意味になります。そうなると、文全体のニュアンスが変わってくると思います。
 そこで、そんなふうな見方で歌詞全体を見直して、私のやり方で日本語に意訳してみようと思いつきました。以下に、その内容を示しておきます。

 

 『思いのままに!』


 二度と来ない 好きにしな
 放任してても 大丈夫さ やることやってるさ
 掟に背いて
 思いのままなのさ

 企みも 責任も 自分持ちさ
 最大限の 自由と快楽
 限りはあるけど
 思いのままなのさ

 閉ざされて はかない 
 ひそやかな ふれあいの
 きみらに味方する
 成せる うれしさ
 失くす かなしさ
 思いのままなのさ


 見通しないまま 迷うのよくない
 思いのままでよい

 そんなものは絶対いらないと
 騒いだとしても
 思いのままなのさ
 
 自由と快楽 限りはあるけど 思いのままなのさ

 

 まず”welcome to your life”の”welcome to ...”という言い回しは、「~にようこそ」と訳すのが普通です。しかし、ここは「人生を好きに使ってよい」という意味にしたほうがぴったりときます。
 また、”Nothing ever lasts forever”(永遠に続くものは何もない)すなわち「限りある」ものだけれど『自由とか快楽といったもの』の全てを最大限に受け止めて、思いの気ままに行動してくれていい。あるいは、見通しのつかないことと結びついた(married with a lack of vision)優柔不断さ(あるいは、あいまいさ)にぼくはがまんができない( I can't stand this indecision)。そしてまた、何をするのかを自分で計画して(my own design)、何かをしたことに自責の念を持って(my own remorse)、どちらも自分で判断させてくれ(Help me to deside)というふうな感じに、日本語に訳してみました。すなわち、自由に生きるために、自ら考え、かつ、受け止めて反省し、「何をすべきか、すべきだったか」を自ら判断する『自主性』がいかに大切かを伝える歌詞ではないか、と私は思いました。
 ところで、”There's a room where the light won't find you/Holding hands while the wall come tumbling down”という2行の歌詞フレーズは、日本語に訳しにくいかもしれません。しかし、’room’(部屋)との関連で’light’は部屋の小さい窓、、’wall’は部屋の壁をそれぞれ表しているとわかると思います。「窓から中にいるかを確認できない閉ざされた部屋で、その壁が崩れ落ちてくるにもかかわらず、きみらは手を握り合っている。」みたいな意味の訳ができると思います。
 以上のように、彼らの曲の歌詞には、独特の表現が随所に見られます。それは、興味がわいて参考になると、私は思いました。歌詞だけでなく、彼らの曲を聴いてみるとわかりますが、かなり独特なサウンドです。PVの映像もそうですが、独特でユニークだと思います。
 1985年というと、今からかなり昔と感じられるかもしれません。しかし、この曲は、ある意味でそのような時代遅れの『旧さ』を感じさせません。そういう意味からも、今回このイギリス人の二人組の楽曲の一つを、ブログ記事に取りあげてみようと、私は思ったわけです。歌詞のみならず、サウンド的にも、映像的にも楽しめるので、そこが現代的だと思います。なので、『ある意味』でおすすめです。

 

『ミスター・ロンリー』から想起されること

 世間では、このコロナ禍での孤立や孤独が、社会的な問題として取り上げられるようになりました。実は、そのこととは別に、私は、以前からこの曲に注目していました。一つは、かつて夜中のFMラジオで聴いていた、『ジェットストリーム』という番組のオープニングで流れていた音楽がこの曲でした。そのせいで、私にはこの曲が、ジェット旅客機の夜間飛行のイメージと重なって記憶されました。
 すると、もう一つ、こんなエピソードを私は紹介したくなります。当時、東京都秋葉原万世橋付近に『交通博物館』がありました。その移転のために閉館間近となった日に、私はその博物館へ行ってみました。これまで何度か訪れていながらも、下の階の鉄道関連の展示物の、押しボタンに触ることばかりに夢中になっていました。そのため、上の階の飛行機・航空機の展示を観ないで、しばしば帰っていました。そこで、閉館間近となったその日は、下の階の展示は適当にスルーして、上の階の展示を観に行きました。人影は少なかったのですが、自動車やバイク、飛行機や航空機などの乗り物の展示を、ゆっくり落ち着いて観て行くことができました。
 そうした中でも、航空機に関する物は、その客室内がそっくりに展示されていました。実際に、展示物の客席には座れました。その壁には、航空機のガラス窓があって、そこを覗いてみると、星々の瞬く夜景が見られました。もちろん、それも、航空機の客席の窓を似せた展示物であって、そこを覗いて見える夜景も、狭い暗室にいくつかの小さく光る豆電球を散りばめた『偽物』の展示物でした。すなわち、そのガラス窓の中に見える夜景は、誰が見ても明らかに『子供だまし』の展示物でした。
 ところが、母子がそこにやって来て、その少年が展示物の座席から身を乗り出して、そのガラス窓をいつまでも覗き込んでいました。母親は、しばらくして「直人、先に行くよ。」と言うなり、『夜景』に見入って窓にかじりついている少年の腕を引っ張り続けました。すると、母親に抵抗していた少年は、窓から引き離されて、大声で泣き始めました。その母子は、いつの間にか私の視界から消えてしまいましたが、私は少年を夢中にしたその『夜景』の展示物に興味がわいて、そのガラス窓の向こうに目を凝らしてみました。しかし、やっぱりその『夜景』の展示物は、暗がりの中に散らばる豆電球にすぎない、ただの『子供だまし』でした。
 しかし、その少年が、その作り物の『客席のガラス窓』から覗いた『夜景』は、『ジェットストリーム』のオープニングで流れる『ミスター・ロンリー』(Mr.Lonely)の曲のような、何となく寂しく、ひっそりとした『夜のしじま』に見えたのかもしれません。少年は、その一人ぼっちの世界にのめり込んで、ひたっているところを、いきなり母親に邪魔されて、その不条理に抗議して、大声をあげて泣き出したのです。
 私がこのようなエピソードを話に持ち出したことには、それなりの意味があります。確かに、このコロナ禍での孤立や孤独により、困窮している人が多いのは事実です。しかしながら、現代は、多様化を社会が容認していく方向にあります。ですから、孤立や孤独によって、かえって一人でいることに癒されている人も少なくないと思うのです。そうした人の心に土足で踏み込むことは、決して良い結果を生まないと思います。だが、そうなると、どうやって困窮した人の心に踏み込んで、救いの手を差し伸べたらいいのか、ということになります。それは難しくて、悩ましい問題です。そう簡単に答えが出る問題ではないのかもしれません。
 ただし、今回のブログ記事においては、その問題はそれ以上は掘り下げません。『ミスター・ロンリー』(Mr.Lonely)という曲は、そのような困窮の思いが、(例えて言えば『夜のしじま』にたたずむような)ひとりぼっちの思いで表現されていて、一種の『美しさ』すら感じられます。厳しい現状を目の当たりしても、過度に落ち込まずに、その現状の中で癒されることも、決して悪いことではないと思います。そういった考えも含めて、改めてこの曲を聴いてみるのもよいのではないかと、私は思います。そういうわけで、その英文の歌詞を意訳して、さらに日本語カバーとして作ってみました。それを以下に示して、今回のブログ記事は終わりにいたしましょう。

 

 『ひとりぼっち』


ぼっち ひとりぼっち
誰も居てくれないよ
淋しいな ひとりぼっち
電話くれないかな

(*)
戦いに 来たけれども
望んで 来たわけじゃない
ゆえに ぼっち ひとりぼっち
家に帰りたい


欲しい 手紙 欲しい
手紙くれないかな
忘れられ 見捨てられ
どういうわけで ひどい目に?

(* くりかえし)