私のプロフィール 仕事が趣味に

 よく世間では、「趣味が仕事に」なったということを聞きます。けれども、そのようなうまい話は滅多に無いことが現実です。
 「仕事が趣味に」なったなんて、逆じゃないかと考える人が多いと思います。今日は、エープリール・フール(April fool)だから、その手のウソに違いないと考えるかもしれません。
 しかし、これは私にとっては、本当のことだったのです。私は、コンピュータのソフトウェア開発会社を辞職して、転職をしたことがありました。表向きは、ユーザーさんの要求に近づきたいがために、コンピューターのプログラミングのスキルアップを目指してのことでしたが、急に気が変わって翻訳の会社を求人誌で見つけて、そこに転職しました。
 そもそも、私は、コンピュータのプログラミングでお給料をいただく仕事が、いい加減イヤになっていました。後で考えると、その頃の私の精神状態が良くなかっただけのことでした。その仕事を今でも続けていたら、高給取りになっていたかもしれません。お金が欲しい女性にもてて、結婚できて、幸せな家庭を築けたかもしれません。しかしそれらは全て、私自身に都合の良い妄想でしかなかったとも言えます。
 その仕事を辞めたことによって、コンピュータのプログラミングは、私にとっては「仕事から趣味に」変わりました。それ以降は、某パソコン雑誌に自作のプログラムを投稿して、その懸賞金で一万円を稼いだ(当時、源泉徴収として100円そこから引かれていましたが)ことしかありません。でも、「仕事から趣味に」変わったことによって、未知の世界が開けました。自慢じゃありませんが、今でも、私はコンピュータのプログラミングに興味が持てて、実際にコンピュータ上で動作する『自作のプログラム』を組むことができます。(それの具体的な話は、またの機会に譲ります。)
 それが『仕事』でなくなった時点で、私の中では世界が広がりました。当時パソコンの趣味についてはМS−DOSとМASMとBASIC言語しか知りませんでしたが(МS−DOSについては、会社で働いていた時に同僚に教えてもらったものでしたが)、自ら秋葉原に行ってウィンドウズ3.0を見つけました。それ以来、私は、ウィンドウズと『趣味』で付き合うことになりました。しかし、そのOSの操作や中身にそれほど詳しくはなりませんでした。それよりも、ウィンドウズ上で、自前のプログラムが『動く』ことが面白くて、その趣味を勝手に一人で続けていました。
 私の話をここまで聞いて、「仕事に結びつかないのに、何て贅沢(ぜいたく)な趣味(もしくは遊び)なんだろう。」と思う人も多いと思います。「お金にならないのに、あるいは、ビル・ゲイツのようなお金持ちになれないのに、そんなものがよく趣味(もしくは遊び)で続けられるものだ。」と考える人も多いことでしょう。しかし、ここに、世の中の閉塞感の問題が隠されていることに、(私自身が閉塞感の固まりであったので)気づいていました。
 私は、現実の日常生活の中で、こんな言葉を聞いたことがあります。「遊びの中から学ぶ」という言葉です。遊んでばかりいて、お金と時間を浪費して、何も学ばない人は論外です。私が言いたいのは、それとは違うことです。私たちは誰でも、子供の頃は、遊んでいる中で何かを学んでいたはずです。ところが、大人になると、家族のためや家庭のために、お金を稼ぐために、すなわち、経済的に一人前になるために、「遊びの中から学ぶ」という習慣を失ってしまい、それを再び得る機会をもなくしてしまったのだと思います。一般サラリーマン的に、大人にとっての『遊び』というと、単なる「気晴らし」「愚痴のはけ口」もしくは「快楽」のことであって、『学びの心』とは結びつかなくなってしまったのだと思います。
 そうした経済偏重で経済至上主義のこの世の中では、『趣味』とか『遊び』は、余計なことであり、そんな余裕と時間があったら、どうやって他者を出し抜いて、他者よりも金銭を獲得するかに、あらゆることを集中するべきなのかもしれません。つまり、『遊び』など一切必要ないと思われることでしょう。ただし、それで何も学ばなくなってしまったことは事実です。本当は、それが一番危険なことなのです。
 こんな例があります。『遊び』の中で団体行動をとれば、個人の思い通りにならないことばかりでイヤになるものです。しかし、そこで『学ぶ』ことによって、全員と協力して、ある目的や願望を実現するにはどうしたらいいかをさらに『学ぶ』わけです。ちょっと堅苦しい話になりましたが、それを『遊び』の中で、みんなで一緒に楽しくやるわけです。ある意味、これは一人一人の頭をフル回転させます。団体行動というと、一人の求心力のあるリーダーがいれば、その集団が、ある方向に動きそうな気がしますが、実際はそうではありません。しかも、おのおのが頭をフル回転させていれば、『いじめ』の問題に悩んでいる余裕さえありません。
 従って、『遊び』は子供の特権だなどという既成観念は捨てるべきなのです。現在の日本では、子供でさえ「遊びなんて、やってもムダなこと」と勘違いしている向きがあります。最初の話に戻りますが、エープリール・フール(April fool)は、『気晴らし』のジョークという意味や、柔軟な発想という本来から持っている意義とは別に、もう一つの意義があると私は思います。それが一年に一回というのも、かなりのインパクトがあります。ただ頭をひねって、ウソを考案するだけでなく、是非とも、その「遊びの中から学んでほしい」と思います。