私の本業 地元直売所の課題

 私の地元周辺では、大小4つの農産物直売所があります。私は、ここ数年、そのうちの一番小さな直売所の、一地区の運営役員を任されています。地域の少子高齢化かつ人手不足の影響で、本来は余所者(よそもの)であった私でさえ、そうした役職を任されるようになったわけです。ただし、その直売所は、ほかの大規模直売所の威力に押されて、儲かっていません。そのため役員報酬はほとんどなく、ボランティアに近いと言っていいと思います。生産者としての私は、その直売所の営業期間中は、きゅうりのJAへの出荷が忙しいので、少しばかりの農作物しかその直売所には出せていません。
 一般的に、テレビ・新聞などのマスメディアでは、儲かっている直売所がしばしば紹介されて、世間の評判になっています。日本全国でその数は増え続けており、食の安全安心への消費者の関心が高まるにつれて、その重要性は年々大きくなりつつあります。
 しかしながら、私の地元の小さな直売所の一つは、後発の大きな直売所やスーパーマーケットに客足を奪われて、年々その売上げが落ちています。数十年前にその直売所の運営を立ち上げた時から数えて十年間は、毎年成長の一途をたどっていたそうです。ところが、近年大規模な売場をもつ新たな直売所ができて、その脅威に押されて、客足が遠のいてしまいました。ある生産者に言わせると、「お客がこの直売所に来てくれなくて、せっかく店に出したものが売れないならば、もうここには出さない。大きい直売所に出せば、お客がよく買ってくれるから、これからはそっちへ作物を出すことにするよ。」とのことでした。
 年毎に、商品を買いに来てくれるお客が減少して、商品を出してくれる生産者も減少して、(レジのおばさんにそれなりの時給を払わなければならないために)営業している時間も短縮して、その直売所は衰退の一途をたどっています。その直売所の事務を担当している運営委員の人に聞いてみると、過去に直売所が繁盛した時の儲け分(蓄え)がここ数年続いている赤字決算で尽きてしまったならば、その直売所を終わりにするとのことでした。
 ここ数年間の(いわゆる余所者の)私は、「人気のない小さな農産物直売所がつぶれるのは、販路が一つ減るだけだ。」としか考えていませんでした。不謹慎かもしれませんが、地元の小さな直売所の存在価値がよくわかっていませんでした。都会では、採算が取れないのならば、その会社は、社員を解雇してつぶれるだけだからです。サラリーマンだった私は、そのことをよく知っていました。
 なのに、今回は、以下に述べる理由から、それが悔しくてならないのです。そこで売られているものが、スーパーや大規模直売所で買うものよりも価格が安くて、かつ、質の良いものが多いことを、最近になって私は知りました。私の目が、やっと地元の生産者の努力や頑張りに向いたというわけです。もちろん、そんなふうに努力して頑張る生産者ばかりではないかもしれません。どう見ても、その農産物は価格が高いな、と思われる米農家さんがいます。私は、それに敵意を持って、それより価格の低い(でも良質な)お米を売っています。(ただし、私の意図は、地元の消費者には伝わらず、評価さえされていませんが…。すなわち、それほど売れていませんが…。)
 その小さな直売所の、価格が安くて質のいい農作物を出している農家さんたちには、私は頭の下がる思いでした。かつての私は生産者として、他の直売所に出すより安くて質の良いきゅうりをこの直売所で出したのに、お客が来なくて買ってもらえず、それを引き取った経験が何度もありました。けれども、その農家さんたちは、そのような私と同じ経験を私以上に繰り返しているにもかかわらず、安くて質のいいものを、その小さな直売所に出荷し続けているのです。
 その小さな直売所の売り棚に置かれた、そうした農作物は寡黙(かもく)です。地元の消費者も、他の生産者も、ほとんどその価値を知る者はいません。誰かが何らかの方法でそれを上手くアピールできれば、地元の消費者および生産者の意識が良い方向へ変わることでしょう。そうなれば、その直売所へ買いに来るお客が増えて、その直売所の会員になりたがる生産者も増えることと思います。
 そのために、私に何ができるのか。そう思った時、ある言葉が浮かびました。「わが国と郷土を愛する心」という言葉です。この言葉は、世間一般には『愛国心』だと考えられています。果たして、ただそれだけなのでしょうか。私は、愛国主義者でも軍国主義者でも国家主義者でもありません。けれども、この言葉の意味するところを全面的に否定することができないのです。
 仮に、私が何らかの団体スポーツでそのチームの一員だったとします。それで、私の属するチームが、相手チームに敗北する寸前だったとします。私は、個人の自由を行使して、一人だけその場で試合を放棄するでしょうか。それとも、まだ勝負をあきらめていない味方と協力して、最後まで競技を続けるでしょうか。
 私は、自らの儲けばかり考えて、消費者に高い価格の米を売る米農家さんを、仕方ないと無条件で認めたくはありません。その人の過去に何があったかは、私でさえも十分理解しています。でも、その過去に打ち勝って、現在と未来を見通して欲しいのです。
 これらの問題を考える上で重要なことは、この世の中が私一人で成り立っているのではないという意識だと思います。その米農家さんは、私が直売所を通して農作物を売ることを批判しました。直売所に手数料を取られるのは損だと言うのです。直売所に手数料を取られるくらいならば、売らないほうがましだ、と言うのです。確かに、その米農家さんは、比較的安い価格でJAに多くのお米を納めて生活を安定させていた過去を引きずっていました。けれども、それを買ってくれる消費者の気持ちは、全くわかっていなかったと思われます。
 もしも、その米農家さんが高齢者でなかったら、もしくは、ベテラン農家さんでなかったら、私は「あんた一人で、あんたの農業の仕事が成り立っているわけではないんだよ。」と教えていたはずです。いくらお米を作っても、それを食べてくれる人や、それを買ってくれる人がいなかったら、農業という仕事は社会的に成り立たないんだよ、と生意気なことを私は言っていたはずです。
 そして、それは私自身にも当てはまることだと思いました。私は、自給自足を目指していません。私は、就農者になるための研修中に、農薬を含む毒劇物取扱者の資格取得の目的で、徹底的に化学の勉強をしました。その結果、人間はどこで生活しても、様々な化学物質に取り囲まれて生活をしていることを知りました。自然に存在する物質でさえも、化学物質として分類されるのです。逆に、農薬が、必ずしも毒性があるものばかりであるとは限らないことを知りました。近年、日本では農薬の取扱いが厳しく規制されており、一匹のチョウやハエさえ殺せない(つまり、毒性のない)薬の使用が増えています。
 どれも、食の安全と安心を求める日本の消費者の声を重視しているためなのです。直売所に農作物を出すためには、使用した農薬の記録を提出することが、農産物の全生産者に求められています。その出荷前に、その記録を地方自治体がチェックして、農薬使用の規定違反があれば即座に出荷停止となります。(私のいる地元では、どこの直売所でも、年にいくつかの出荷停止になった例が実際にあります。)
 もちろん、私は、日本の国で許されている様々な自由を貴重だと思っています。それらを否定するつもりはありません。しかし、その自由があるゆえに、失ってしまう何かが必ずあるということも、私は地元直売所の存続の問題などを契機として改めて知ることとなりました。よく知らないうちに何でもかんでも失ってしまったら、私たちはいつまでそれに耐えられて大丈夫なのか、少し気になるところです。