夢のお告げと仮想について

 茂木健一郎さんの著作『脳と仮想』(新潮文庫)を読んで以来、私はその『仮想』という脳の働きに、日常的に関心を持つようになりました。これまで、科学的あるいは論理的によくわからなかったことが、少しだけ明確にわかるようになってきたからです。
 その、仮想とは何か?仮想とは「仮にそうだと思うこと。想像。イマジネーション。」あるいは、「実際にはない事物を、仮にあるものとして考えること。」です。そして、そのイメージするものは、ぼんやりしていて、あやふやです。けれども、そのことが、私たち誰にとっても重要であり切実なのです。
 さらに、私は考えたのですが、それは生命の神秘なんかではなくて、生物としての必然的な成長(あるいは、進化)だと推測できました。
 例えば、私たちの『見る』という行為を考えてみましょう。私たちの目には、水晶体というレンズを通して、外界の映像が網膜に映ります。それを視神経がイメージとして感じ取っています。ここまで説明すると、機械のカメラと同じように思われるかもしれません。ところが、私たちは、網膜に映った映像をそっくりそのまま脳に伝えても記憶してもいません。一見そのように見えても、感じられても、実は違うと私は思いました。
 私たちは、心身が成長するにつれて、外界をより広くハッキリと見ることができるようになります。これは、目や首など体の動きと、視神経を通じて脳内に伝わった情報の蓄積とが、連動していることを示唆しています。つまり、私たちが、身の周りを広くハッキリと見ることができるのは、体と心が相互に補い合っているからだと思います。
 本当のことを申しますと、視神経で伝えられる情報は、普段私たちが思っているよりも、ぼんやりしていて、あいまいなのかもしれません。そして、部分的・局所的にしか注目していないのかもしれません。しかし、そんな情報であっても、脳内に伝えられると、これまでの記憶と重ね合わせることができます。そうして加工された情報(あるいは、イメージ)を視神経を通じて、網膜側にフィードバックします。そうしてそれを何度も繰り返すことによって、私たちの目は、より鮮明に広範囲に『見る』ことができると、私は思うのです。
 私がそんなふうに考えるようになったのは、アハ!体験ができる動画について考えてみたのが、きっかけでした。もしも、私たちの目や脳が、カメラやコンピュータという機械と同じであったならば、画像の変化は瞬時にしてわかるはずです。しかし、私たちの目は、部分的・局所的にしか見ていませんし、私たちの脳も、部分的・局所的にしか憶(おぼ)えていません。にもかかわらず、私たちは、その画像全体が見えている気でいるのです。
 この論理的・科学的矛盾を解消するためには、私たちの目と脳の働きが、機械のそれと同じではない、と考えるしかありません。目と脳がそれぞれの役割分担をして、かつ、相互的に密接にやりとりをして連動することによって、私たちの「目で見る」という普通の現象が成り立っている、と考えるべきなのです。
 『見る』ことの説明が長くなってしまいました。しかし、このことを説明しておけば、睡眠中の夢をみることや、仮想をすることの説明に役立つと思って、あえて長々と述べておきました。つまり、睡眠中に夢をみている状態とは、外界からの映像が入ってこないので、脳内の記憶に頼ってイメージを加工したり、あるいは、仮想をしている状態なのです。その実態は、眼球運動を始めて、脳内の脳波パルスなどのやりとりを活発化させて、目を覚ます前にウォーミングアップしているという感じだと思います。
 なお、ここで参考までに、私が経験した聴覚の例を少し述べておきます。睡眠中に何かの夢をみていました。その最中に、遠くから、かすかに小さな音が聞こえてきました。その音が少しずつはっきりしてきて、そして私は夢から覚めました。すると、放送休止のピー音が鳴って、テレビがつけっ放しになっていることに気がつきました。
 このように、睡眠中に夢をみている時というのは、起きている時に外界から入ってくる音声や映像などの情報(あるいは刺激)が遮断されていることが多いようです。もちろん、膀胱に尿がたまって、その刺激が脳に伝わって、トイレにまつわる記憶が加工されて、夢に出てくるということはあります。でも、通常は、外界の刺激に影響されずに、夢の中にいる(あるいは、仮想をしている)ことのようです。つまり、目を閉じたスクリーン上で、かつて外界から取り入れた記憶の断片を加工して、ぼんやりしたイメージやあいまいな言葉などを脳内で不規則にやりとりしているのが、睡眠中の夢の正体なのかもしれません。
 私たちは、起きている時の習慣から、睡眠中にみた夢をハッキリと憶(おぼ)えていると思いがちです。そして、そんなハッキリした夢の内容をどうして簡単に忘れてしまうのかと不思議に思うことがあります。この疑問に対して私が出した答えはこうです。睡眠中にみている夢の内容は、そもそも、おぼろげで、あいまいなので、その記憶の喪失を議論すること自体に意味がありません。すなわち、「夢を憶えている」ということは、目が覚めてから、そのおぼろげな記憶をもとにして加工して捏造(ねつぞう)していたにすぎないのです。あえて、それを言語化したり、映像化して、ハッキリさせていたにすぎないわけです。
 当然、そんな味気ない、夢のないことは信じられないと批判されるかもしれません。ですが、ひょっとして、私たちの脳の働きというものは、それほど高度でも神秘的でもないのかもしれません。次世代のAI(人工知能)よりももっと単純で、あいまいで、あやふやで、視野が狭くて、のろまで鈍感なのかもしれません。良くも悪くも、それが私たちの真の姿なのかもしれません。
 以上のように考えてみると、夢の中でのお告げというものも、神仏と同じように、仮想の産物であり、個人的なことにすぎないと、私は思いました。それを信じるか信じないかは、個人の自由です。ただし、それが他人に理解されるかされないかはわかりません。たとえ他人から全く理解されなくても、不平不満が言えないことを、その人個人としては覚悟しなければなりません。