悪ふざけの延長

 最近もまた、店内での迷惑行為が、SNSで拡散されて、二重の問題となっています。なんで公共の場でそんな迷惑行為をするのかとか、なんでそんなことをSNSにアップロードするのかとか、総じてどうしてそんなことをする前に思いとどまれないのかといった疑問がわきます。
 私は、この問題の根っこにあるものを『悪ふざけ』という言葉で一括(ひとくく)りにします。度を越して、ふざけること。あるいは、度の過ぎたイタズラ、と言えば、一般的に理解できると思います。私は妻子を持ったことがありませんが、こうしたことを知るたびに、その親の顔が見たいと思います。別に、親たち(おそらく私と同世代か、それに近い世代)を責めるつもりはありません。結局、ある種の物理的法則がご子息に働いて、その行為が惰性に流れて度を過ぎてしまった、というだけなのかもしれません。
 子供の頃の悪ふざけは、一応、大人の親たちの保護観察下で許されているのが常識です。子供の側からすれば、窮屈に育てられたくないし、親の側からすれば、のびのびと育てたいという願望の表れだと言えます。そのどちらにも恵まれなかった子供は、肩身の狭い思いをしていて、大人しくていじめに遭(あ)いやすいものです。よって、学校のいじめ問題は、悪ふざけが起点になっています。
 だから、ネット上のひぼう中傷にしても、悪ふざけが起点になっていることが多い、という飛躍の論理も成立しそうです。子供の頃の『悪ふざけ』が成功体験となってしまうと、大人になってもブレーキが効かないようです。さすがに、人目をはばかるようにはなりますが、ここで大きな間違いを犯してしまいます。SNSなどのネットサービスが個人で使用できるために、内面や本音のはけ口ができたと勘違いしてしまうことです。残念ながら、いくらIT技術が発達しても、そんな個人に都合のいいものは発明されていません。かくして、その人の心の恥部は、公に自動的に拡散されて、大きな罰を背負うことになるのです。
 私は、子供の頃の、友人の悪ふざけに✕(ばつ)を付けるつもりはありません。心が発散できない世の中は、誰しも危険なものです。なるべく他人の迷惑にならないように、不平不満などを隠れて発散できればよいのかもしれません。こればかりは、誰しも一生の課題とすべきで、すぐには答えにたどりつけないように思われます。
(ちなみに、口でやりとりしたことを暴力で返すR軍を、現代の私たちは容認できるかどうかも、大きな問題ではありますが…。これなどは、人類の、最も大きな悪ふざけであるような気がしてなりません。)