私が刑事ドラマを好む理由

 私が子供の頃からテレビで観ている番組で、今もよく観ているのは刑事ドラマです。『相棒』シリーズや『科捜研の女』シリーズを始めとして、1クールの連続ドラマは数知れず観ていると思います。かつての2時間ドラマも、その大多数は刑事ドラマのタッチで描かれていたと言えるかもしれません。

 小中学生の頃の私は、桜木健一さん主演の『刑事くん』とか、大川橋蔵さん主演の『銭形平次』とかをよくテレビで観ていました。前者は、熱血根性青春ものでした。一方、後者は、時代劇ものでしたが、推理ものでアクションものでもあったと思います。中学時代に友人の勧めで『刑事コロンボ』なども観ていました。目立った格闘アクション無しで、相手との話し合いだけで犯人を追いつめて自供させるところが、かえって新鮮でした。他にも『Gメン’75』や『太陽にほえろ』なども、よく観ていました。

 最近では、再放送を含めて『相棒』シリーズが、面白くかつ観てためになるようです。これまで私が観てきた刑事ドラマには、共通のパターンというものがありました。ドラマのラストシーンあるいはその前のシーンで、犯人あるいは容疑者が必ず正直になって素直に自白をして、全ての真相が明らかになる。という筋書きのパターンです。もしも、刑事ドラマにそれが無いと、視聴者はモヤモヤしてしまいます。そうさせないために、ラストシーンあるいはその前のシーンで、犯人が素直に自白をして、事件の真相を明らかにするのです。

 実は、このことには一長一短があると私は思います。殺人事件の場合、「死人に口なし。」と一般に言われるように、その真相をまじかに知っているのは、犯人あるいは容疑者と呼ばれる人です。その人が、素直になって自白をするのですから、これほど説得力のあるシーンは他には無いわけです。多少その場が不自然であっても、犯人または容疑者の自白シーンが必ずドラマのラストシーンに付いてきます。だから、視聴者はそれを目撃して、気持ちがスッキリとするのです。

 しかし、このことは、意外な副作用を生み出しているとも考えられます。つまり、犯人や容疑者(すなわち加害者)の自白や謝罪や反省などが、事件の真相とイコールだと、テレビドラマの視聴者に見なされてしまうことです。このことは、私たちの現実の世界に少なからぬ影響を与えています。加害者が事件の真相を語るとは、加害者自らが反省や謝罪、あるいは自白をすることだと、それを意味することだと、私たちの多くは勝手に思ってしまっています。

 それは実際には、私たちが被害者の側に立って、あるいは、被害者の気持ちに寄り添い、被害者に味方しているだけなのかもしれません。もちろん、そのことは道義的に正しいことです。けれども、本当に物事を公平に見ているのか、という点では、いささか疑問があります。私たちは、ある種の日常的な不安から、大衆心理に流されて、「それほどでもないこと」を「ことのほか危険で、重篤なこと」と見なしているのかもしれません。

 今までの視点を変えてみればわかることです。あらゆる物事の『真相』とは、実際に起こった「一つ一つの事実の積み重ね」に過ぎません。そこに、意見や感情が入り込めば、真実は歪んでしまいます。どんなに私たちが学習して、成長して、生き物として進化したとしても、正解の見つからない問題に答えることはできないのかもしれません。

 かつて、私は『天使と悪魔』という刑事ドラマを夜中のテレビ番組で観ていました。それは、これまでの日本で禁じられてきた司法取引をひそかに行っていると疑いをかけられている刑事の話でした。確かに、司法取引すれすれのことをやって、加害者の自白をもとに、本当の容疑者を見つけ出すというストーリーは、スリルがあって、視聴者の側(私)からすると面白い内容でした。

 しかし、冷静になって考えてみると、どこからどこまでが犯罪なのか、どこからどこまでを容疑者とすべきなのか、あるいは、どこからどこまでが被害者と仲直りをするべきなのか、どこからどこまでの容疑者が社会的制裁を受けるべきなのか、などといった疑問がわいてきました。刑事ドラマというフィクションの世界では、こうした問題があっても何の問題もなく成立します。けれども、私たちが日常生活を営んでいる現実の世界では、私たち一人一人の私的な市民感情と、行政・司法などの公的機関や組織の判断が必ずしも一致するとは限らないのです。

 そのようなことから考えてみると、昨今の刑事ドラマの一つである『相棒』シリーズの杉下右京さんは、興味深いキャラクターと言えましょう。彼の凄いところは、警察官としての職務を忠実に果たしつつ、大衆心理に流されることなく、必ず真相を明らかにしようとするところです。もちろん、容疑者を明らかにするところは、探偵並みの手腕があると言えます。しかし、彼が優れているのは、容疑者をあげるという捕物的な趣味ではありません。それよりも、事実の真相を明らかにすることに長(た)けていることにあります。感情的に事実関係を曲げることが無く、真相を一つ一つの事実の積み重ねとして矛盾なく捉えるということです。(その結論として、容疑者がしらを切ると、彼は激高します。彼を一人の人間としてみれば、それは当然かもしれません。)

  もちろん、私は刑事ではありませんし、刑事になった経験もありません。でも、こうした刑事ドラマの背景にあるものを、テレビを観ながら考えることはあります。法と個人の関係とか、市民感情と個人の関係とかを考え、ニュースなどの報道番組や情報番組で知ることのできた現実の問題を考える際に利用したりしているのです。たとえば、隣国のK国の市民感情を私たち日本人は理解できないことがあります。しかし、彼らと同じように大衆心理で感情的に流されてしまうことは、私たち日本人にも(市民レベルで)あるようです。ただし、それは世の中がグローバル化しているからではなくて、グローバル化する以前からあったことのように思えます。

 また、別の例を示しましょう。最近、児童虐待で女児が死亡する事件があって、傷害罪で逮捕された父親が「しつけのためだった。」と自供したとのニュースを知りました。私は、このニュースを聞いて、まず「その父親がウソをついていて、その『しつけ』という言葉は、自身を正当化するための言いわけに過ぎない。」と考えていました。けれども、この私の考え方には、事実を歪めてしまうおそれがあることに、今になって気がつきました。

 この『しつけ』という言葉は、子を持つ親ならば誰でも考えて、誰でも言う普通の言葉だったのです。つまり、その父親は、親としては当たり前の答弁をしただけのことなのです。結果として、娘を死なせてしまったとはいえ、私たちが敵意を抱くほどの人物ではないと思います。しかし、私たちは、私たち自身の心の奧で、なぜかその父親に恐怖の念を抱いてしまいます。なぜか、その父親を忌み嫌い排除したく思って、その言動を認めたくないと思うのです。

 要するに、私は、私自身の心の中に、どうしようもない敵を見い出しました。冷静に考えましょう。親が子にしつけを怠り、その子供が大人になって何らかの加害者になったらば、一体だれが責任を取るのでしょうか。児童相談所はそこまで責任が取れるのでしょうか。それとも、私たちの社会全体が全ての責任を負うべきなのでしょうか。そうした疑問に答えるためには、子供に対する親のしつけは義務であり、その責任は一番に親にあると考えなければなりません。それを第三者がいちいち口出しすることはできないと思うのです。

 命を落としてしまったあの女の子は、本当にかわいそうだと思います。できれば救ってあげたいと、誰もが思ったことでしょう。しかし、この一点にとらわれて、私たちの社会のシステムが改悪の方向に進むとしたならば、一体誰が報われ救われると言えるでしょうか。私たちは、そこのところを慎重に検討する必要があります。

 今回のように、我が子を死に至らしめた場合は、個別の案件として、その父親と母親はその罪を償うべきだと考えられます。彼ら二人の大人としての責任は、社会的な不安を大きくしただけに重いと考えられます。

 以上、今回も私自身の戯言(たわごと)になってしまいましたが、私なりに考えたことを書いてみました。こうした問題には、人それぞれ考えがあるものです。それでいいと思うのです。だから、答えの見つからない問題を前にしてひるまないことが、誰でも本当は一番大事なことなのかもしれません。それこそが、大人が、これから生きていく若者や子供たちに示していける唯一のお手本なのかもしれません。

 そしてまた、私は、そういったネタ探しに、今でも刑事ドラマを好んで観ているのかもしれません。