『いいとこ取り』の功罪

 かつて(若い頃)中小企業に会社勤めをしていた私は、昇給やべアとは全く縁がありませんでした。そう言えば、個別に昇給した人をうらやましく思ったことはあります。けれども、その人は間もなく会社を辞めてしまいました。なぜだろう、もったいないな、とは思いましたが、それがどうしてなのかはわかりませんでした。今になって考えてみると、昇給に見合った役割を社内で果たせなかったことが、その人の本当の退社理由だったように思えます。
 ところで、最近の物価高騰に対して、雇用される人々の賃金が上がらないことが、今の日本の問題としてしばしばメディアで取り沙汰されるようになりました。いわゆる「是非に及ばず」(仕方がない、とか、やむをえない、の意味で。)と日本人の誰もが、このことに関して思うようになっています。しかし、私は、ここで異論を唱えたいと思います。脱サラの無責任さで、持論を以下に展開いたします。
 そもそも、日本の被雇用者の賃金が上がらないのはなぜなのでしょうか。それに対するおすすめの答えの一つを教えてさし上げましょう。つまり、それは「日本人の労働力は安くて質が良い」と誰もが考えていることにあると、私は思います。『安くて質が良い労働力』という、いわゆる『いいとこ取り』が当たり前になってしまうと、こうなります。その労働力の良し悪し(是と非)を判断して論じる(つまり、評価する)過程(プロセス)がなくなってしまうのです。
 これまで日本で一般的に言われてきたことは、「労働力に付加価値をつける。」ということです。けれども、その労働力が、「安い」とか「質が良い」とか言われるのは、すでに付加価値がついている状態であり、それ以上の価値は付加できない状態にあると思うのです。たとえば、さらに安さの価値を追求すれば、最終的にはタダ働きになります。また、良質を追求するならば、究極的にはモナリザの絵画のごとく永遠の未完成や未納品となります。それでは、もう仕事とは言えません。タダではなく、かつ、納品されるものが仕事であり、それを支えているものが労働力であるとするならば、そのような『労働力』というものを、(できうるならば測定して)評価していくことが必要です。それこそ、危急の将来的課題と言えましょう。
 そのためには、まず、『安くて質が良い労働力』という、いいとこ取りのイメ-ジを日本人の誰もが捨てる必要があると思います。そして、その良し悪し(是と非)を日本人自らが主体的に評価していく必要があります。簡潔に例えると、「あなたは、機敏だけども、せっかちだ。」とか、「この商品は、価格は安いけれども、そのぶん使いにくい。」というふうに、長所と短所を同時に揚げて評価するのです。この場合、長所のみ、あるいは、短所のみの好評や批評は、公平な評価とは言えません。
 日本人は、しばしば外国人からの評判や評価を絶対視する傾向にあります。外国人から良い評価を受ければ、それを良いと評価して、自信を持ちます。逆に、外国人から悪いと批評されると、それを悪いのだと即断して、惜しげもなく切り捨てます。そのことは、従順で素直だと言えば、それまでなのですが、主体性や自主性に欠けるところがあります。良く言えば、それは日本人の和の精神なので、一方的に悪くは言えません。しかし、世界標準に振り回されてばかりいることは、周知のことだと思います。外国人だって人間ですから、彼らの都合が優先されるのは、当然の成り行きです。結局、その場その場で、個別に判断や評価を日本人自らがしていく必要があると思います。
 もっと単純(シンプル)に考えてみましょう。労働力を評価するということを、そんなに難しく考えてはいけません。質の良い労働力は、価値が高いのです。逆に、安い労働力は、価値が低いし、すなわち、質も良くないと考えられます。すなわち、日本人の賃金が低いままなのは、これ以上、質が良くならないということを(正直言って)示していると思います。過去にどんなに経済成長が右肩上がりであっても、日本人の労働力は、その犠牲になることはあっても、それ自身の主体的な成長にはつながっていなかったと考えられます。
 名目上『安くて質の良い労働力』をうたっていた、私たち日本人の労働力は、実はずっと質が悪かった。質が悪いから賃金が安い。そのように自虐的に考えてみると、妙に論理的にスッキリした思考になると思います。じゃあ誰が一体儲けているのか、ということになります。日本人の経営者でも労働者でもないことは明らかです。外国人のほうが日本人より儲けていると考えるほうが、スッキリします。
 以上のようなことを出発点として、日本人の労働力について『いいとこ取り』をせずに考え直してみることを、おすすめいたします。