科学は再現性を重視する

 以前私は、このブログ記事でSTAP細胞の再現性の有無について述べました。いちいち面倒なことかもしれませんが、良くも悪くも、いついかなる場所においても、所定の条件下でその事実や現象が再現できるかどうかが、科学には求められます。最初に言っておきますが、「科学への過信は、私たちの命取りになる可能性があります。」また、「テレビドラマの影響で、科学や医療はどんな困難からも私たちを救ってくれると思い込まされていますが、その幻想は私たちの失意と絶望になる可能性があります。」これらのことを聞いて、驚愕(きょうがく)する人が多いかもしれません。けれども、ここでは「~になる可能性がある。」という言い回しに注意してもらいたいと思います。
 最近テレビを観ていると、「(某外国の論文によると)~となる可能性がある。」という情報に多く出くわします。昨今の私たちは、メディアからもたらされるそうした情報や事柄をいち早く一般常識として取り込むことに全力を使い果たします。ところが、日本の某専門家さんが少しそれを検討して、その内容を少し詳しく知りたくなって、その論文を書いた某外国の教授にちょっとしたことを質問してみたりします。すると、「それは、まだ研究や検証の最中である。」みたいな答えが返ってきます。ここで初めて私たちは、私たち自身が『常識化の勇み足』を行っていたことに気がつくのです。
 私は、メディアから知ったそうした情報や事柄は、ひとまず疑うことにしています。「否定する」のでも「軽視する」のでも「無視する」のでもなく「疑う」のです。なぜならば、それらのほとんどは、いずれも『再現性』が未確認の情報や事柄だからです。科学的な知識や情報としてメディアから知らされてくるために、私たちは、その『正しさ』や『確からしさ』を無条件に信じて、とかく無評価や無批判になりがちです。しかし、そうした知識や情報は『再現性』が確認されないかぎり、その『正しさ』や『確からしさ』が定まりません。それを前提の命題にして推論をしても、誤った結論や判断を導いてしまう可能性が大きくなります。
 それでも「下手な鉄砲も、数打ちゃ当たる。」方式で、はずれても大砲や鉄砲を打たないよりはましだと思うかもしれませんが、『再現性』のない知識や情報は、別の知識や情報にたやすくアップデートされてしまいます。『科学的』と呼ばれていた知識や情報がその時折でコロコロと変わってしまって、結局何を前提にして考えたらいいのか、つまり、何の正しさ・確からしさを信じていいのか、私たちはわからなくなります。
 私は、それらの情報に疑いの目を向けますが、決して理解しないというわけではありません。感情的になって興奮するよりも、それらを自然体で冷静に受け取るほうが、素直に頭に入ってくると私は思うからです。他人の意見に感情的になる人ほど、他人の意見を無視するものです。テレビの前の私自身は、コメンテーターや専門家さんの話し中に感情的に興奮状態になったら、テレビの電源を切ることにしています。しばしば自らの精神の健康を心がけて、そうさせていただいております。
 同様に考えると、「危機感をあらわにした。」という感情的側面が、政治家や知事・市長さん等ならともかく、科学者や研究者・専門家さんには似つかわしくないような気がします。科学者や研究者・専門家さんは、科学的な知識に基づいて、事実や現象の『再現性』を確認しているはずです。だから、危機感をあらわにして感情的になる必要は、業務上どこにもないと私なら思うのです。そのような感情や憤慨は、自らの業務に対して自信がないものと、いずれ世間からは見なされてしまうことでしょう。もしも、本当に心配や懸念で感情的になるのであれば、それは個人の社会に対する意見であり、あえてそれを科学的知識の帰結とすべきではないと思います。
 例えば「新たな感染拡大の波が来る。」との発言が、民衆の危機感をあおる目的で、科学者から発せられるのであれば、少々それは残念なことです。なぜならば、新たな感染拡大の波が来ることは、すでに誰もが知っていることだからです。それよりも、来たとしても「どうしてよいのか、よくわからない。」と思っている人のほうがはるかに多いはずです。だから、具体的にどうしたらよいのかを簡潔に提案するほうが役に立ちます。例えば「街の人出が多いところに、もしもウィルスが入り込むとするならば、みんなの知らないうちに人から人へ次々と感染して、ウィルスの感染力が上がってしまいます。」「そんな時に、個人でできることは、なるべく多くの人出から離れていることであり、そのほうが安全だと、おすすめします。」というふうに、理路整然と話を進めるほうが、より多くの人々の心に響くと私は思います。
 ところで、今から数か月前に、イギリスのジョンソン首相が「科学を信じるしかない。」などと発言されているのを私はテレビで観ました。実は、この発言は(いい加減に聞いていた人々へも含めて)少なからぬ誤解を与えた発言でした。私にも、こんな違和感がありました。「科学をやみくもに信じてよいのか。」「それでは、宗教を信じるのと同じではないのか。」「むしろ、その反対に、疑うのが科学の本筋ではないのか。」などという疑問がありました。だから、ジョンソン首相の主張するところが、私にはすんなりと理解できませんでした。
 そこで、彼のそれまでの経緯を振り返ることにしました。以下に、私なりに推測してみましたが、多少事実とは異なっているかもしれません(巻末注を参照)。けれども、私が理解できている範囲で話を進めたいと思います。彼のその発言以前に、何があったのかを述べましょう。実は、彼自身が新型コロナウィルスに感染して、その感染症のために病院に入れられてしまいました。一時は、危篤状態になってICUに入れられた、というニュース報道さえありました。後に何とか回復したものの、彼自身がこんなことになるとは、まさか思っていなかったはずです。
 そのような彼自身の経験を踏まえて「科学を信じるしかない。」という発言がなされたと考えてみます。すると、最初に私がおぼえた違和感とは、全く違うものが見えてきました。すなわち、次のような推測が私にはできました。かつての彼には、科学に対する不信感があったようなのです。もちろん、「ウィルスが感染症を引き起こす。」とか「それをこじらせたら重症化する。」といった、現代の一般的な科学的知識を、誰もが知っている『知識(あるいは理屈)』としては学んでいたのだろうと思います。ただし、そういったことが、『いつ、どこでも、再現性のある科学的知識』としては見ていなかったのだと思います。本物の科学的な知識に備(そな)わっている、『正しさ』とか『確からしさ』とかの重要性を知らなかったわけです。平たく言えば、科学および科学的知識を軽視していたわけです。
 したがって、まさか新型コロナウィルスに感染発症するなどということが、彼の身をもって再現されるとは、これっぽちも思っていなかったようです。しかし、そのような事態を実際に経験して初めて、『再現性』のある科学的知識の本当の重要さを思い知ったのだと言えましょう。それは、科学に対して不信感を抱いていた彼の心を、「科学を信じないわけにはいかない!」と一変させてしまいました。まさに、その劇的な変化が彼の心の中に起きて「科学を信じるしかない。」という強い決意の言葉になったと言えましょう。
 しかしながら、冷めた目で見直してみると、そのような彼の発言は、「科学というものを宗教的あるいは盲目的に無批判・無条件に受け入れて信ぜよ。」という意味で解釈しないほうがよいことがわかります。科学的な知識が世界万人に役立つようになるためには、それを宗教化してはならないのです。「科学を信ずる者は救われる。」などといくら街頭で呼びかけても、あるいは教会で説教をしても、誰も救えません。
 科学とは、絶えず疑問を持って考えることであり、それで考えられた仮説や法則や定理などを実証して、その『再現性』を確認しつつ、さらに疑問を持って考えること。すなわち、その方法的な繰り返しが、知識と技術を発展させるのです。つまり、科学は、信じることよりも、考えることが大切です。そして同時に、科学的知識のもつ『再現性』を重要視するべきだと思います。その知識や技術や情報などが、いつどこでも再現可能であることによって、それらの『正しさ』や『確からしさ』が実証されます。すると、そういう知識や技術や情報こそが、応用され、信じるに足るものとなって、科学全体の応用度も信用度も増すわけです。つまり、「科学を信用する。」ということは、結局そういうことなのです。科学やその科学的な考えおよび知識を世界的に広めるために、脅(おど)しも強制もいらないことがわかっていただけると思います。
 科学者や研究者や専門家ではない私たちの大部分にできることは、科学を誤解しないことです。科学を過信せず、そのありのままを冷静に自然体で受けとめていくことが一番大事だと、私は思います。


(注)今回私のブログ記事での、イギリスのジョンソン首相の扱いについては、美化しすぎるとの批判があるかと思われます。私はそのことに対して、反論する考えはありません。現に、彼の様相を観察するに、無批判に科学を信奉している面が多々見受けられます。現在のイギリス国の結果だけを見て、それを批判ととるべきか、それとも賞賛ととるべきかは正直わかりません。その点に関する、私の捉(とら)え方に不信を抱いた皆様には、「イギリスのジョンソン首相(仮)」とか「ジョンソン首相(仮名)」と読み替えて、フィクションとしてお楽しみいただくことをお勧めいたします。私に次のような偏見があるせいで、彼を文章で描くとどうしても芝居がかってしまいます。私は、H大学文学部在学中、『シェイクスピア講読』の授業が、英文学科卒業のための必須科目でした。それで、シェークスピアの主要作品を一年間勉強していました。よって、ジョンソン首相が、どうしても『あの偉大なシェイクスピアを生んだ国の首相』に見えてしまうのです。テレビの中の彼が、シェイクスピアのような偉大なレベルの『芝居役者』に見えてしまい、そんな私の記述は、まるで『AIによるシェイクスピア新作劇』をパクったようなものになってしまいました。誠に勝手ながら、この場を借りて陳謝いたします。