感染症対策の国語表現的分析

 『肺炎』の心配について、ブログ記事の下書きをしている最中に、ちょっと気になるテーマを見つけました。感染症対策として主に言われていることについて、国語の表現としてはどうなのかということです。そんなこと後になってから、ゆっくり評価すればいいじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、世の中の現状として、『緊急事態宣言』という言葉の縛りから、つい個人的に一時的に解放されたくて、結果として外出してしまい、人が多く集まってしまう場所ができてしまっているようです。おそらく、現場で実際にそれを目の当たりにしたら、誰もが「仕方ないな。自分一人の力じゃどうにもならないから、せめて自分だけでもウィルスにやられないことを期待するしかないな。」と思って、買い物などを続けるしかなかったことでしょう。
 しかし、ウィルスがそんなことを思う人間の気持ちを理解してくれるはずはありません。ウィルスは小さな微生物なので、そんなことを考える余裕のある脳みそを物理的に持ち合わせていません。私たちが、ここのところ毎日渋々と相手にしなければならないのは、融通の利かないそういう相手です。そしてまた、この21世紀に至っても、人間は、それほど自然を思い通りにできているわけではないのです。この新型ウィルスのために全世界で多くの人々が命を落としている(推計)という現実は、私たち人類の科学と科学技術、医療がどんなに成長し発達しても万能ではない唯一の証拠なのかもしれません。(もっとも、万能・完璧・絶対何とかなるという理想みたいなものをたやすく信じてしまう人間の側にも問題があり、愚かさが感じられますが…。)
 余計な話をしてしまいました。ところで、『新型肺炎』という言葉を私は過去に使いましたが、正確な表現ではないので『肺炎』として訂正いたします。インターネット上で調べたところ、この『新型肺炎』という言葉はSARSコロナウィルスの特定までに使われていた、その症状への呼び名(つまり、呼称)だったそうです。改めて、陳謝させていただきます。
 「3密を避ける。」「不要な外出を控える。(Stay home)」「手を洗う。」といった主な感染症対策の言葉やその言い回しは、これまでそうしたことに馴染(なじ)みの薄かった私たち日本人にとって、理解が追い付かず、行動も変えにくいという状況が一部で見られます。
 確かに、これまでの私たちは、限られた空間に群れることが普通だったと言えます。満員電車にすし詰めになることは、それ自体が社会人として、かつ、サラリーマンとして当たり前のこととして認めてきたことでした。ですから、「3密を避ける。」と言われても、それがウィルス感染対策に有効だと言われても、「本当のところは、実際にウィルスにやられて痛い目を見ない限り、身に沁(し)みてわからない。」というのが本心なのだと思います。そして、これまで馴染(なじ)みの薄いその言葉が、(本当は強制ではなく、自主性を促されているのですが)強制的に感じられて、余計な緊張感や違和感を強いられて、結局油断や気の緩みにつながってしまうようです。テレビのニュースで毎日報道される感染者確認数が、本当は関心を持たなくてはいけないと思いつつも、自ら強いて他人事にしないと気が持たない(ストレスになる)、という心の流れになっているようです。
 「3密を避ける。」という言葉は、本当に私たち日本人を窮屈にしている言葉なのでしょうか。まず、私はそのことに大きな疑問を感じています。一見、今までの習慣をやめて特別に我慢を強いるように発せられるこの言葉は、日本語表現的に分析してみると全く違う語感を持っていることがわかります。この文の述語の「避ける」という言葉は、「回避する」と言い換えることができます。つまり、動物にとっては当たり前の権利あるいは意志である「逃がれる」という意味につながる言葉だと私には思われます。
 本当に強制的なのは、それとは逆に、実際にいる環境から逃れられない状態にいることだと思います。他人に強制されるのではなく、環境に強制されて身動きできない、どうにもならない、逃げたくても逃げ場がない、という場合にこそ、『強制的(な環境)』という言葉を使いたいところです。満員電車の走行中のように、周りじゅう他人(ひと)ばかりで、そこから一人だけ自由に逃げ出せない。そういう状態にこれまでの私たち日本人は慣れきってしまって、環境に制約・強制された不自由さというものを意識しないで生きてきました。そんな当たり前に思ってきたことが、外国人にとってはそうではないのだということに気づいて欲しいと思います。
 この「どうにもならない、逃げ場のない密集した状態」あるいは「現場の環境に強制される状態」を、以前私は土曜日の夜のニュース番組で、たまたま目にしたことがありました。一日の運行本数を減らされた、ニューヨークの地下鉄車内が満員になっていた映像でした。詳細は割愛しますが、その当然の帰結が現在の犠牲者数につながっていると言えましょう。(もちろん、私は、ニューヨークが悪いとか言いたくはありません。現在のニューヨークではそれを反省した対策が行われています。)あんなことがなかったならば、失われなくてもよかった命も多かったのではないかと思うとやりきれません。今の私たち日本人も一人残らず例外ではないと思います。他人に強制された空間ではないので、誰が悪いとは言えません。「他人(ひと)が密集する」という『現場の環境に強制された空間』で、私たち誰もが逃げようにも何処にも逃げられなくなるのです。
 さて今度は、「不要な外出を控える。(Stay home)」という言葉を少しだけ考えます。家にずっといることを『監禁状態』として受け取っていては、何も始まらないと思います。なるだけ3密を作らないためとか何か意味目的があるため、そうしたことが呼びかけられているのだと思います。また、次回のブログ記事で『肺炎』のことに言及しますが、その中でも「呼吸器官(特に肺)にかかる負担を少しでも軽くする」ということに触れるつもりです。それと関係がありますが、その「不要な外出を控える」ことに盲目に従うのではなくて、ある程度のわかりやすい理屈で理解できなければ(そのことで、補償という言葉の一人歩きも気になりますが)、きっと痛い目を見るほうの道を私たちの多くは選んでしまうことでしょう。いかなる科学者やお医者さんであっても、そのことに責任が取れないということに、私たちは一人でも多く気がついて欲しいものです。
 3番目の「手を洗う。」は、例えば私の前回のブログ記事から『かぼちゃモザイクウィルスの話』を読んでいただくとわかると思います。中性洗剤をつけて水洗いすることが当然のこととして述べられていますが、それよりも大切な別な点があります。つまり、私たちの手がウィルスに触れて無症状キャリアー(媒介者)と同じになってしまうことです。それでは、手袋をしていればそうならないと思うかもしれませんが、今度はその手袋が無症状キャリアー(媒介者)と同じになってしまいます。その逆に、もしもウィルスに触れた手の皮膚が腫れたり、ただれたりすれば、消毒をするべき部位や場所が特定できて、その感染の封じ込めもたやすいかもしれません。(あくまでも私の想像ですが。)
 あなたの手が無症状キャリアーと同じになって、あなた自身の呼吸器官(鼻や喉など)やあなた以外のほかの場所に感染を広めたら、いついかなる時でも(手遅れになるという意味で)大変です。そうならないために、あなたの手に石鹸をつけた手洗いやアルコール消毒が習慣として必要となるのです。
 このように、これらの感染対策の言葉や言い回しは、内容を一歩踏み込んで考えてみると、強権的でも強圧的でもない国語表現であることが理解できると思います。かといって、忖度(そんたく)や遠慮をしている国語表現でもありません。むしろ公平で中立的な、冷静に受け止めるべき言葉であり言い回しと言えます。したがって、私たちはもう少し専門家さんの発する言葉に真摯(しんし)に耳を傾けて、そのメッセージを自然体で受けとめて理解し直してみる必要がありそうです。
 なお、他の事柄についても国語表現的に分析検討してみると、まだまだいろいろと考えられそうです。例えば、感染症対策としてテレワークが国から勧められているため、世の中はそれにこだわっていますが、テレワークが利用できない地域も少なくないと思います。私がいる地元では、JAや直売所からの内容・要件や税務署の確定申告などは、書面で郵送して対応しています。また、手元の携帯電話も諸連絡に利用できています。テレワークの利用ができなくても、いろんな手段が工夫次第でできるはずです。この際いろいろと考えてみると良いと思います。