今回の参議院選挙が終わって思うこと

 インターネット選挙とも呼ばれた今回の選挙について、私はある問題を黙々と考えていました。日本国憲法の第15条に「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」とあります。あえて私は、この条文に則(のっと)って、今回の選挙が終わるまでは何も述べませんでした。本業のきゅうりの作業でいっぱいだったせいもあります。けれども、私は選挙に無関心だったわけではありません。今回も、当日にちゃんと投票に行きました。
 案の定、選挙が終わってみると、今回の投票率は50パーセント近くしかありませんでした。一票の地域格差を考える前に、投票した有権者は投票しなかった有権者の2倍の票の重みを得ることができたわけです。投票した有権者は、投票しなかった有権者の票を一票もらって、我が票にして投票したの同じと言えます。今後投票しない有権者が増えれば増えるほど、従来の一票の重みは、投票する有権者の肩に一層かかっていくことでしょう。
 ちなみに、選挙で誰が誰に投票したかは原則としてわからないことになっていますが、誰が投票に来たか来なかったかは、選挙人名簿にしっかり記録されています。投票に行ったことのない有権者は、そのことを全く知らないのかもしれません。そこで、そのことを一応ことわっておきます。
 つまり、今回私は、選挙に投票しない(もしくは、できない)日本国民の姿に注目していました。彼らのために、選挙制度に関する憲法改正をしたほうがよいのかもしれません。でもその前に、国民投票においても、選挙と同じパターンが発生して、その国民投票に投票しない有権者が増加してしまうかもしれません。一体どこの国民なのか疑われてしまう結果が起きてしまうかもしれません。日本の国家主義者がそのことを憂慮するのもわからなくはない、と私は思います。
 選挙に投票しない(もしくは、できない)日本国民の言い分は、おおかた決まっていると思います。「自分一人が投票したところで、日本は何も変わりはしない。」だから、「自分一人が投票しなくても、日本は何も変わりはしない。」と考えているということです。みんながそう考えるから、投票に行かない有権者が増えて、投票率が落ちるというわけです。
 私が分析するに、彼らには「国家の義務に従いたくない。だから、選挙に行きたくない。」というような考えがあると思われます。選挙制度というものは、彼らの意思で決められたものではなく、国家が決めたものと考えていると思います。民主主義さえも、彼らにとっては国家の押し付けであり、庶民が各地で長い時間と犠牲をかけて獲得したものとは考えていないと思います。あって当たり前だと、思い込んでいるわけです。そのような現代の日本国民一人一人は、まさに歴史認識に欠けていると言えます。以前私が言ったとおり、彼らは共産党独裁の現代中国において『従順で模範的な中国人』になれると思います。
 選挙の投票率についての批判は、そこまでにしておきましょう。若い人たちは『エヴァンゲリオン』というアニメをよく知っていると思います。このアニメ作品には、『人類補完計画』なるものが出てきます。私は、その一連の実行シーンを見て、かなりの違和感を覚えました。人によっては、それは人類の理想や憧れであり、人類にとって必要不可欠なものに見えるそうです。個人の枠(ATフィールド)を取っ払うことは、人類にとっては理想であり、必須なことであり、様々な苦労や困難を解決してくれる決定的な対策なのかもしれません。しかし、私にはそのような計画は一種の逃げであり、(言葉が悪いかもしれませんが)自殺行為と同じものを感じてしまうのです。そのような計画に象徴される『個の否定』を私たちみんなが認めるのは、変だと私は思います。その前に、私たち一人一人が個人としてしっかりしていないと、そのうち私たちは取り返しのつかない失敗をしでかしてしまうかもしれません。