衆議院選挙後に言いたい事

 選挙運動が行われている最中に、何か言うと選挙違反になってしまうといけないと思いました。従って、何も言いませんでしたが、選挙が終わったのでちょっと述べてみようと思います。
 まず、選挙にみんなが望む点は何かということで、その一位は景気と雇用というアンケートの結果が出たそうです。私の分析では、これは「先生、お願いします」型の、つまり、従来型の庶民の選挙への希望・願望の一つだと思います。右肩あがりの経済成長を日本ができなくなってから、日本の多くの庶民が求めてきていることだと思います。このことから、日本の多くの庶民の選挙に対する意識は、従来のままで硬直化していて、進歩が無いことがわかります。年々投票率が減っていっても、まったく不思議でないと言えます。
 私は選挙に立候補してはいませんが、私が立候補者であったならば、(おそらく落選したと思いますが)今回の投票の基準は『行政改革』にあったと考えたことでしょう。事業仕分けの判定結果に法的拘束力を持たせる法案を提出するとか、全国各地の代表からなる国会で事業仕分けの結果を検討・採決することを義務化する法案を提出するとかして、歳出経費のカットのためでなくて、庶民全体の景気と雇用を促進するような『行政』に改革することを第一に考えたと思います。そうした事業仕分けをやりながらの議論の中で、何が日本の国益なのかを明確にして、情報共有するべきだと思います。
 しかし、現実の世界は、どうやったら景気と雇用が回復するのか、誰も決定的な提案ができていないと思います。例えば、TPPの交渉に参加すれば、もしくは反対すれば、原発ゼロにすれば、消費税を増税すれば、もしくはその増税に反対すれば、景気と雇用が良くなるのか。と言うと、誰もハッキリしたことを主張できなかったと思います。有権者の誰もが、候補者の誰に、もしくは、どの党に投票したら良いのか、迷うのが当然だったと思います。
 しかし、それが脳に良いのですよ。と、脳科学者の茂木健一郎さんみたいなことを言ってしまいましたが、結局誰が誰に、もしくはどの党に投票しようとも、それを秘密にして投票できるのですから、個人の責任は問われません。従って、学校で学級委員を決めた頃のような気楽さで、意思表示をしてもいいわけです。
 実際には、誰に投票したら良いかわからないから、投票に行かないという人が沢山いたと思います。かつて私はそれを「でくのぼう」と批判しましたが、もっと具体的に説明しましょう。その人にとっては、誰にも投票しないことが一番良い意思表示だと考えています。けれども、それは「選挙」や「民主主義」というものの本質を知らないからだと思います。戦後間もない頃、「男女共学で、男女が手をつないでフォークダンスを踊ることが民主主義だ」と教えられて、恥ずかしがったかつての日本人と同じで、何が何だかわからないのです。そんな人は、共産党独裁の中国人に生まれた方が良かったのかもしれません。中国共産党政府の言うことには絶対逆らわない、模範的で立派な中国人になれること請け合いです。
 「選挙」の何を知らないのかを申しましょう。近代日本の歴史を見ると、女性が選挙に行ける、いわゆる婦人参政権は戦後からであり、戦前の日本では女性は国の政治に口出しできませんでした。そして、戦前であっても、明治の時代は富裕層でない多くの男性が選挙権を持っていませんでした。大正の時代以降、男性は普通選挙権を得ることができましたが、それと共に制定された治安維持法がその足かせとなって、その選挙権が政治的に十分機能したとは言えなかったと思います。その結果、偉い人たちを暗殺したり、テロを起こしたり、兵隊たちがクーデターを起こしたりする事件が何度か起きて、(現代の日本人が郷愁を抱く以上にあの頃は)国内が不安定になっていました。さらに、徴兵された多くの男性が、戦争で亡くなりました。(そのようなことを、靖国神社に参拝される国会議員さんも考慮されて、選挙に行かない日本国民には勿論のこと、日本の隣国にも情報発信していただきたいと思います。)当時の日本の政治を誰が左右していたかと言えば、日本軍の上層部と、日本の一握りの富裕層の男性たちだったと言えます。彼らの考えによって、日本国は戦争や不当な権力に振り回されて、不幸な歴史をたどってしまったとも言えます。
 ですから、ちょっと汚い言葉で言えば、先日の中国の反日運動と同じように、「選挙」とは、日本における合法的なガス抜きの手段の一つであると言えます。そう考えれば、「誰に投票しても日本は変わらない」とか「政治なんて誰に任せても同じだ」とか考えるのは当たり前のことになります。日本国民の不安や怒りの「はけ口」や「ガス抜き」の手段の一つとして、そのような合法的な「選挙」があると考えればいいのです。
 「誰にも投票しない」ということは、実は、無効票という意思表示にはなりません。なぜなら、「誰にも投票しない」ことは、「誰も当選しない」という結果にはならないからです。「誰にも投票しない」人は、同志が多いと思いがちです。自分自身が投票しなければ、誰も当選しない、すなわち、誰も選挙で選ばれないと思いがちです。しかし、学校の学級委員が必ず選ばれるのと同じように、国会議員は必ず定員数が選ばれます。選挙および民主主義とは、そういうシステムなのです。結局「誰にも投票しない」ということは、「すべての立候補者に等しく一票ずつ投票した」のと同じ意味と効果になってしまうのです。「誰も国会議員に当選させたくない」という意味にはならない、ということに日本人の多くは少しでも早く気がつくべきなのです。
 そのように考えることが、空虚な妄想ではなかったことを証明しましょう。前回の衆議院選挙で、自民党政権民主党政権にひっくり返りました。それを、おおざっぱに解釈するならば、民主党マニフェストが良かったからとか、自民党政権公約が良くなかったからだとか言う前に、当時、日本国民の多くが、自民党に次の政権を任せたくなかったと考えたからだと思います。当時は、その代わりに民主党に次の政権をひとまず任せてみよう、と日本国民の多くが考えた結果だと思います。つまり、日本国民の多数決が、そのような意味を持っていたというわけです。そして、今度は、自民党に再び政権をやらしてみよう、という日本国民の多数決の結果が出たわけです。
 天皇陛下や、外国の指導者(A国のO氏やC国のコ氏やK国のイ氏など)が、勝手に日本の政権を決めているわけではありません。そんなこと当たり前じゃないか、と誰もが言うことでしょう。それならば、選挙に無関心な日本国民が将来どんなに増えようとも、これまでの選挙で日本の立法が成り立ってきたという『既成事実』は日本人の記憶から消せないと思います。「決められない政治」や「ねじれ議会」がいけないと言うならば、「行政改革」ならぬ「立法改革」をするべきだと思います。選挙で当選して国会議員になられた方には、選挙の度にそのことを日本国民から託されていると、わかって頂きたいものです。
 クドいようですが、多数決と個人の関係について具体的に触れておきましょう。私は過去の東京都知事選で、二度もドクター中松氏に投票しました。しかし、二度とも石原慎太郎氏が都知事に当選されました。私は、このような体験から、「選挙とはそのようなものだ。」ということを学びました。私は、ドクター中松氏が、発明家であることを知っていました。でも、イグ・ノーベル賞の受賞のことは知りませんでした。私はただ、あの有名なエジソンと同じ「発明家」という肩書きを持ったドクター中松氏が、東京都知事になったら面白いかもしれない、と直感して投票をしたのです。たとえ、多くの東京都民が石原慎太郎氏に投票したという結果を知っていても、私はそれを残念がったり、その意思を恥じたりはしませんでした。少数意見でその意思が社会的に通らなくても、私自身が投票する相手を決めることができて、そのことを何となく誇らしく思ったからです。
 投票した候補者とは別の候補者がたとえ当選したとしても、選挙に行った私は政治に失望したとは思いませんでした。誰かに投票したことで後で失望するならば、それは自己満足にすぎなかったと思うべきです。以前私は、投票も支持もしなかった青島幸男さんが東京都知事選で当選された時、その公約どおりに、ある公共事業がストップしたのを知って「やるなあ。」と感心しました。私自身が投票や支持をしなかった都知事でも、公共のために働いて、その政治活動が成功すれば、良かったと考えられるのです。逆に、その政治活動に失敗があれば、「そら見たことか。オレは、あなたには投票していないぞ!」と、やはり胸を張って言えます。いずれにしても、選挙に参加してさえいれば、そんなふうに言えるし考えられるのです。選挙に行かない人は、きっとそうした人生の感じ方、言い換えれば、明確な意思表示の機会を味わえないんだな、と私は思いました。