いじめや自殺と戦う人たちへ

 年末年始の日本の世の中が、クリスマスやお正月で明るい気分になろうとしているこの時期に、こんな話題を述べるのは、空気を読んでいないと思われるかもしれません。しかし、こんな時期だからこそ、私には思い当たるのかもしれません。みんなが幸せになりたいと意識を向けているスキに、私は一人立ち止まって考えをあれこれ巡らせています。一種の負け惜しみですが、これこそ生きるためのコツと言えます。今回のテーマも書きたいと前々から思ってはいたのですが、日常の作業や仕事が忙しい間は、どうしても考えがまとまりませんでした。
 今年、どうしても忘れられない世の中の事件の一つに、いじめによる若者の自殺がありました。こうした事件が起こる前は、誰も『いじめ』を無くそうと積極的かつ切実に考えたり思わなかったはずです。その直接の被害者となったご両親の方々は、「何で自分たちの子供がそんな運命にならなきゃならないのか」と思い、「自分たちの子供がどういう気持ちだったかを知りたい」と思われたそうです。そして、そのことに対して誰も(教師や校長や教育委員会でさえも)説明ができないことに、怒りと悲しみをおぼえたことでしょう。
 この問題の本質を考えると、いじめにあった当事者以外の人間ができることというのは限られていると思います。何とか知恵を絞ってさまざまな対策を練って実行することはできても、最終的には、いじめられた当人の気持ちや意識が変わらなかったらどうにもならない、というのが現状だと思います。なぜなら、自分の人生に最後まで責任を持てるのは、誰でも自分自身しかいないからです。たとえそのご両親であっても、その子供の一生すべてに責任は持てず、その子供が一人立ちするまでが限界と言えます。だからこそ、未成年のうちに命を絶たれることは、筆舌に尽くせない悔しさと、永遠に答えにたどり着けないことへの苛立ちに、心をむしばまれてしまうことなのです。
 私はこの問題を冷静に考えたいと思います。一般的に考えれば、いじめられる側がかわいそうで、いじめる側が悪くて、それを見て見ぬふりをするのはダメじゃないか、ということです。けれども、いじめられる側の気持ちがこの問題のすべてではないかと私は考えます。
 「ほんの少しの失敗もミスも許されない」というのが、今の学校や家庭や社会の風潮であり常識です。今の若い人たちは、学校や家庭で教育されて、もしくは、社会の影響を受けて、人間関係や勉強における失敗やミスを、たとえそれがほんの少しであっても、過大かつ過剰に気にしてしまっていると思います。
 そういう私も、この年齢になっても過去の何らかの失敗やミスを思い出したり、寝ている間に夢で見たりします。本当を言えば、現在生きている老人の方々が愚痴で言っていることをよく聞いていればわかることですが、その愚痴の内容はその人が過去におかした失敗やミスと必ず結びついています。つまり、どんなに長生きしようとも、どんなに人生に成功しようとも、人間は、過去の多くの失敗やミスを忘れ去ることはできないのです。それに囚われて、後悔し続けて生きていかなくてはなりません。ですから、人間関係や勉強がうまくいかないからといって、ダメだと思ったり命を絶ったりすることが本当に正しいことなのかどうか、誰であっても疑ってみる必要があると思います。単純に考えて、「それは間違っているよ。」と相手に注意することは誰でも出来ることだと思います。
 そんな悠長(ゆうちょう)なことを言っている場合じゃないよ。事態はもっと切迫しているよ。という批判は、当然あると思います。子供たちがいじめられた兆候や命を絶つ兆候を事前につかめないことに、大人たちは焦燥しきっています。それならば、その相手が子供ではなく大人だったら、それらの兆候を事前につかめていたのでしょうか。現在大人として生きている私たちは、もともとそんなに良心的で賢かったと言えるのでしょうか。
 そうした問いに答えを求めるとしたら、失敗やミスをした時の気持ちから逃げないことと、いじめられる側の気持ちに目をそむけないことが必要となります。あらゆることに一度も失敗やミスをしない人生なんて、ありえないと早く気づくことです。
 いじめられる人の気持ちに共通することは、『恨み』だと思います。「私は悪くない(潔白だ)。相手が全て悪いんだ。」という気持ちです。自分の非を他人の非にしてしまうのは、人間の弱さゆえに仕方のないことかもしれません。しかし、その結果生まれる『恨み』の感情については、いじめられる人自身が責任を持てるようにならなければなりません。私自身、生まれてこのかた『恨み』の塊(かたまり)となって、人間関係を絶った経験が多かったと思います。結果として私は損をしましたが、自ら命を絶つことはありませんでした。
 かつて私は、新入社員として入社したソフトウェア開発会社で、人間関係で個人的な失敗をしました。当時その会社は、無名の中小企業の一つでしたが、かつて技術者だった方が専務をやっていらっしゃいました。そんな私の行状を知った専務は、社会人として致命的なミスをした私や、同僚の新入社員たちの前でこんなことをおっしゃいました。「人間がいかにミスや失敗が多い生き物であるか、ということだね。」その専務のおじさんは、そう言って、コンピュータがいかに人間社会に必要不可欠か、そのソフトウェアを開発することがいかに社会的に有意義であるかを説いてみせたのです。
 その一言を思い出すたびに、私は、機械である『コンピュータ』の持つプラスの価値観と一緒に、人間である『私』の失敗とミスの多いマイナスの価値観に気づかされるのです。だから、『恨み』を心に抱いた結果が、自らの命を絶つことになったり、相手にいじめられたり、あるいは、相手をいじめることになるのは、明らかな間違いなのです。ただし、私は誰に対しても、「決して、間違ってはいけない。」と言うつもりはありません。いじめが根絶できないのは、人間関係の失敗やミスがなくならないためです。コンピュータと比べて、人間が失敗やミスの多い生き物であるならば、それは当たり前のことだと思います。