私のプロフィール 世界に一つだけだったかもしれないマシーン

 通常私は、機械のことを『マシン』と言います。今回だけは、ちょっとかっこをつけて『マシーン』と呼んでみたいと思います。例えば、「タイムマシン」ではなくて「タイムマシーン」と呼ぶのです。一般的に、若者にとってのマシーンのイメージは、何だったでしょうか。マシーンと言えば、かっこいいスポーツ・カーといった車のイメージを思い浮かべます。でも、二十代の頃の私は、車の運転免許を持っていませんでした。そのせいで、私にとってのマシーンは、車ではありませんでした。
 当時の私にとって、マシーンとは、マイクロコンピュータ・システムを応用した一連の商品を指していました。二十歳の頃、アルバイトをして貯えたお金で初めて買ったのは、シャープ製のポケット・コンピュータ(ポケコン)のPC−1211とPC−1500でした。そのうちに社会人になって、NEC製のハンドヘルド・コンピュータPC−8201を買い、次に日立製のデスクトップパソコンMB−S1を買いました。いずれも、BASIC言語を覚えて使える、8ビット・マイクロコンピュータを内蔵した国産の既製マシーンでした。マイクロコンピュータマイコン)を組み込んだ本体基盤と、キーボードとディスプレイとフロッピーディスク装置をつなげた汎用システムが、パーソナル・コンピュータ(パソコン)として知られるようになったのも、大体その頃からだったと思います。
 一方、会社では、小型応用システム部という部署に新入社員の頃に配属された関係で、私はマイクロコンピュータの応用製品のソフトウェア開発に当たっていました。MDS(Micro-computer Development System マイクロコンピュータ開発システム)という機械システムで、ファクシミリや端末機やワークステーションの中枢に組み込まれたマイクロコンピュータを動かすプログラムを開発していました。MDSでは、CPMやCPM86というDOS(Disk Operating System ディスク・オペレーティング・システム)が動いていて、テキスト・エディタやPL−M8086コンパイラ(16ビットのマイコン開発向きPL−1言語処理系プログラム)や8086アセンブラや8086リンカーなどのプログラム開発ソフトが利用できました。「8086」というのは、インテル社製の16ビット・マイクロコンピュータ用のプログラム開発ソフトについていた名称でした。
 当時はまだ、ワープロ表計算ソフトなどが使えるNEC製のPC−9801シリーズが社会に普及していませんでした。東芝製のワープロ専用機とかを買ってみた記憶が私にはありました。そのうち私は、Unixマシーンの開発部署にまわされて、C言語でプログラムを組む仕事を何年かやっていました。その間に、横須賀通研という、神奈川県横須賀市の丘の上に建っていたNTTの研究所へ、仕事の目的で見学に行ったことがありました。当時の私の仕事では、ワークステーションというマイコン応用システムの上で操作支援ライブラリというものを使って、当時のアップル社のマッキントッシュというパソコンと同じようなイメージをそのディスプレイ画面に作っていました。
 当時からアップル社のマッキントッシュというパーソナル・コンピュータは一般に知られていて、パソコン・マニアに人気がありました。コンパクトな本体とディスプレイが一体化していて、そのモノクロの画面に小さな黒い枠のウィンドウがいくつも重なり合っていました。同時に文章とイラストと写真をその画面に表示できるため、小さなディスプレイの物理的な大きさを補うことができました。また、バックグラウンドで音楽を流しながら、ワープロで文書やプログラムが作れる、という解説をあるパソコン雑誌で読んで、このコンピュータはすごいなあ、と当時の私は思いました。ただし、このアップル社のマッキントッシュというマシンは、その本体とキーボードだけで50万円前後とものすごく高価だったので、私は手を出しませんでした。
 また、当時からこのマシーンには機密保護の目的で、勝手に本体のフタをこじあけて中を見ようすると、その後フタを閉めても、二度と動作しなくなるように仕掛けがしてありました。高価なパソコンであったため、そんなことをして動作不能になってしまうリスクを誰もが避けていました。しかるに、私は、機械の具合が悪くなるとそれを分解掃除をしたくなる性質(たち)なので、そのようなマシーンはいくら性能が良くても扱いづらいと考えていました。
 やがて、会社の仕事で使うために、NEC製のPC−9801VXを買い、その後PC−9801UVやPC−386を買ったりしました。いろんなパーソナル・コンピュータ(パソコン)を、私は一人で使っていました。まさに、当時の私は「パソコンおたく」の名にふさわしかったと思います。様々な理由で、いくつかのコンピュータは壊れてしまい、動作不能になってしまいました。ただし、この時点で、軽乗用車の新車一台分を楽に買えるだけの金銭を、二十代の私は使っていたと思います。私が新入社員になった頃は不況だった世の中が、その頃にはバブル経済まっ盛りになっていたと思います。当時のパソコンは、PC−9801VXの一台を買っても28万円もしました。
 そうした流れで私が次に手を出したのが、PC−AT規格で決められて製造された、本体基盤(マザーボード)、CPUチップ、メモリ・チップ、ハードディスク、フロッピーディスク装置、グラフィック・ボード、サウンド・ボード、キーボード、ディスプレイ装置とマウスなどの部品(パーツ)をバラバラに買って、組み立てる自作マシーンでした。当時、メモリ・チップ以外はすべて輸入品で説明書がすべて英文でしたが、当時のアップル社の某マッキントッシュやNEC製の某PC−9801シリーズと違って、パーツの購入額の総計がはるかに安かったと思います。壊れた部品だけを交換することができるようになったので、コンピュータ・システム全体の寿命も少しだけ伸びました。
 三十代の頃の私は、その十年間で3台ほど自作マシーンを作りました。前作の部品(パーツ)で利用できるものは流用して次の自作マシーンを作っていたので、自作マシーンが増えることはありませんでした。ソフトウェアも、MS-DOSMicrosoft Disk Operating System)を会社の同僚からフロッピーディスク一枚のコピーでもらって、最初のうちは使っていました。そのうち、秋葉原の小さな電気屋さんでWindowsを見つけると、それを買って自作マシーンに入れるようになりました。
 ただ、当時のハードディスク装置は必ず不良セクタがあって、時々ファイルが壊れました。それに対しては、それをチェックしたり、修復したりするプログラムもあったので、秋葉原で入手して使っていました。
 ところで、自作マシーンの一号機を組み立てていた時のことです。本体のボード基盤には、そのボード専用の電源スイッチが小さな部品の一つとして箱に入っていました。その電源スイッチとボード基盤を接続する時に、半田付けによる配線を間違えてしまいました。電源スイッチを入れたら、自宅の電源のヒューズがとんでしまいました。その時パチンと音がして、白い小さな煙が出て、その電源スイッチの部品がイカれてしまいました。
 その電源スイッチは、ボード基盤に付属していた部品(パーツ)の一つであったので、それを買った秋葉原のお店へ行って、その電源スイッチだけ売ってくれませんか、無かったらその代わりになる電源スイッチでもいいですから売ってくれませんか、と店員さんに訊いてみました。ところが、その答えはノー(No)でした。そのボード基盤は直輸入品であって(そういえば、英文のマニュアルしか、その箱には入っていませんでした。)、店ではそのような小物の部品をストックしていないと言われました。
 当時はまだ、自作マシーンのパーツ専門店などは無かったので、秋葉原であってもパソコン専用の電源スイッチのような小物が手に入りませんでした。仕方なく、私は秋葉原の電気街の小さなパーツ屋さんに行って、コタツのスイッチを買って帰りました。やっと組み立てた自作マシーンの一号機は、本体ボード基盤の電源端子にコタツのスイッチのコードを半田付けして、みごとに動きました。つまり、私は自作コンピュータの一号機を、コタツのスイッチでON/OFFしていたわけです。最先端の電子部品を内蔵しているパソコンにコタツのスイッチがついている姿は奇異に思えるかもしれませんが、別にその自作マシーンを他人に見せるわけでもなく、パーソナルな、すなわち、個人の使用に限られていたので、私自身そのことをそれほど気にしてはいませんでした。今にして思えば、世界に一つだけのマシーンだったかもしれない。と、そう私は思いました。
 それほどまでの熱意を持って、三十代の若い私はコンピュータを自力で動かしたかったのだと思います。そのマシーンは、コタツのスイッチをつけたままの形で五年間くらい動作していましたが、その後、もっと性能の良い自作マシーンの二号機を組み立てる際に、バラバラに部品を分解して処分してしまいました。