異国の唄 天使のお告げ (前回の続き)

 それでは、前回のブログ記事でお約束したとおり、ブラジルの女性グループRougeの"Um Anjo Veio Me Falar"の日本語カバーを披露したいと思います。その後で、いくつかの事柄について私なりの意見なり説明なりを付け加えておきます。


 『天使のお告げ(Um Anjo Veio Me Falar)』

わかりづらい心の奥を わかろうと努めてた
愛に導かれ信じながら
夢みてた (夢みてた) 生きていた


でも、ありがとう 愛に満たされて
気がついた 夢は終わらない
時が癒してくれなくても (こらえましょう!)
強くなれそう
だから、ありがとう!
(そう、ありがとう…)


出会うたびに夢みていた かつてなかった ときめきを
いつも そばに居てくれて
そのすべて (夢の中)
抱いてわかって欲しいのに…


(ありがとう) 愛に満たされて
気がついた 夢は終わらない
時が癒してくれなくても (こらえましょう!)
強くなれそう
だから、ありがとう!


探し続けた愛は (ああ)
それは君の手にある (お〜おぅ)
君は天使さ 愛の天使さ!
すべての愛の天使よ!


時が癒してくれなくても (こらえましょう!)
恐れはしない
どうも、ありがとう!


(ありがとう) 愛に満たされて
気がついた 夢は終わらない
過ぎ去る時などいらない (悲しくても)
強くなれそう
だから、ありがとう!
(う〜いぇ〜)


 さて、私はこの唄を母国語で唄っていたブラジルの女性グループRougeについてほとんど何も知りません。あのメリッサ・クニヨシちゃんが唄うのを動画で見て、言葉はわからないけれどいい唄だなと直感しただけなのです。どういう歌の内容なのかを探ってみたくなりました。ところが、ネットで調べても納得のいく訳詩にたどり着けませんでした。CDショップに行っても、日本語訳が付いているCDがありませんでした。(USA経由の輸入版CDならば、何とか入手できるかもしれません。しかし、それは定かではありません。)
 そこで、前回少し説明しましたように、ネットの無料の機械翻訳を利用し、かつ、余り詳しく単語が載っていない日葡英の3ヶ国語辞書を引いて、私なりに翻訳して、それをもとに日本語カバーを作ってみました。文法的には、同じラテン語系列のフランス語とかなり似ているように、私には思えました。動詞の活用形が沢山あったり、不定詞や不定冠詞や男性・女性名詞があったところなどに共通点がありました。
 私はプロの翻訳家でも作詞家でもありません。誰かに依頼されて、仕事としてやったわけでもありません。つまり、営利目的ではなくて、単に「スパゲティを食べたいから、自ら畑で小麦を栽培して食べた。」のと同じ考えで日本語カバーを作って、私自身が楽しむのが目的でした。従って、翻訳や作詞の過程でとんでもない間違いが万が一にもあったとしても、大目に見てもらいたいと思っています。
 そうした過程で一番問題になったのは、異国の文化や生活習慣の違いをどう表現するかということでした。前回にも述べましたが、キリスト教の聖書およびカトリック教会では、天使や悪魔などの擬人化によってその教えを説くことがしばしば行われます。日本に在住する日本人は(私自身も含めて)仏教徒が大多数なため、たった一人の神様に代わって『神の言葉』を地上の多くの人間に伝えにやって来る天使のイメージがつかみにくいようです。「天使の姿を見た。」とか「天使の声を聞いた。」と日本の日常生活で言ったものなら、「きみ、それは幻覚症状じゃないの。」と言われてしまいます。
 そこで、私が注意した点は、異国の文化を過度にひけらかさないような表現方法をとることでした。例えば「天使が舞い降りた」とか「天使が耳元でささやいた」とかの言葉を使いたいところがあったとします。が、そこを私はじっとこらえて、抑えた表現にしてみることにしました。信仰で心が落ち着いて光が見えた、つまり、「ありがたや。」と感謝したいほど元気づけられた人の思いを中心にすえて、歌詞の内容でその心情を描くようにしました。
 また、異国の生活習慣については次のようなことに注意しました。例えば「かつて感じたことのないの愛情を(あなたとの)キスで(想いうかべて)何度、夢に見たことだろう。」という歌詞(ほぼ直訳)がありました。日本では、その『キス』をどうしても男女の愛情表現としてだけで受け取ってしまいます。しかし、ブラジルでのそれは他人との挨拶、すなわち、日常の礼儀作法の一つに過ぎません。
 日テレの『世界まる見え!特捜部』という番組の一部をネットの動画サイトで見ることができました。が、『ブラジルのみのもんた』とも呼ばれているハウル・ジルさんの番組に出演した西尾由佳理さんが、ハウル・ジルさんにキスをされる場面がありました。多くの日本人がそれを見て、びっくりしたと思います。でも、それは決して、セクハラや嫌がらせではなかったことに、私たち日本人は気が付かなくてはなりません。いくら言葉で説明しようとしてもわかってもらえない時は、外国人に対して態度やジェスチャーで示すしかないということを私たち日本人はよくわかっていたはずです。ハウル・ジルさんは「これがブラジルでの日常的な挨拶の仕方なのダヨ〜ン。」という感じでその国の礼儀作法を示しただけだったのだと思います。
 従って、上の直訳は「あなたと会うたびに、何度そのトキメキを夢に見たことだろうか。」くらいの訳にすれば、私たち日本人に普通に伝わるのではないかと思いました。勿論、キスを男女の愛情表現と受け取って、歌詞の内容をエロチックに考えても間違えではありません。大切なことは、異国の生活習慣をまず理解した上で、そのように考えるのは自由だということです。
 ところで、この異国の唄は一体何を唄っているのでしょうか。いよいよ、その核心に迫ってみることにします。あらかじめ断っておきますが、唄によっては何を言いたいのか、何を訴えたいのかわからない場合も少なくありません。ですから、あまり多くを期待しないでください。唄や音楽は、制限時間のあるアートの一種ですから、和歌や俳句や川柳のように全てを語れないことが多いのです。
 Rougeの原曲の歌詞のポイントは、何度も繰り返される「多くの時間が過ぎ去ることが重要なのではない。あなた(が立ち直るの)を待ちましょう。決して、以前はこれほどまで強くはなかった(以前のあなたは、今のあなたと同じくらいには強くなかった)と、私は聞いた(と、私に言ってくれたように思えた)。」という(やや直訳なのでわかりにくいでしょうが)このサビの一節にあると思いました。多くの時間、つまり、長い年月が過ぎ去ることによって解決できることとは、何だったのでしょうか。長い年月を経て忘れさせるもの、それは、別れてしまった相手への思いだったのではないかと私は思いました。
 この唄の中の主人公は、何らかの理由があって親しい相手と別れてしまいました。そして、その痛手をこらえて生きてゆくことになるのですが、時間が解決してくれると思うにはあまりにその心がか弱く、長い歳月を必要とするかもしれませんでした。ところが、しばらくしてその主人公は、こうじゃないかと思うようになります。きっとあの別れた相手は、人間じゃなかったんだ。天使だったんだ。私は人間に恋をしたのじゃなくて、天使に恋をしたのだ。
 おかしな話になってきましたが、そうマジになって考えたのだと思います。そう思い込むことによって、そのか弱い心は救われたのでした。別れてしまった相手が実は天使だったと思い込むことによって、その相手を恨む気持ちが消えました。きっとその相手と出会ったのは、その天使が私に神様からのお告げを伝えにやって来たからなのだ。そして、その相手と別れてしまったのは、その相手が羽のある天使だったからで、飛び立ってしまった(つまり、別れてしまった)ことは仕方がなかったのだ。なぜなら、天使は神様の言葉を多くの人に告知して愛を届けるために飛び回っているのですから、一人の人間のもとにだけ留まっているわけにはいかなかったのです。
 そこで、その主人公は、別の相手にめぐり会えるかもしれないという夢と希望を持つことができるようになりました。その相手はまたもや天使かもしれないけれど、人間に恋して人間そのものに失望するよりも、ずっと良いのかもしれません。つらい現実を間近に感じながらも、夢を持ち続けていけるようになったのです。その夢というのは、宝くじに当たったら何に使おうかと想像する人の夢と似ています。その夢に終わりはなく、生きることにつながっていました。
 別れの現実に耐えて、次に出会う相手を待ちわびる気持ちがその夢と希望となるのです。だから、その主人公は、そんな『天使』と出会えたことを感謝し祝福する気持ちになったのだと思います。
 宗教にからんだ内容というと、とかく厳格で堅苦しい話になりがちです。そのように最初は想像していた人も多かったんじゃないかと思います。けれども、以上のように考えてみると、原曲の歌詞の内容は、案外、トレンディでドラマチックなのかもしれません。やや俗っぽい発想なため、カトリック教のお坊さんからは怒られそうな感じがします。でも、ポップな流行歌の歌詞としては軽快で聡明な感じがしました。