オムニバス映画の三部作を考える

 ここのところ、私が話題にしている映画『世にも怪奇な物語』はオムニバス三話と呼ばれています。三話ともエドガー・アラン・ポーの原作によるという共通点があり、三人の映画監督の競作によるオムニバス映画であることは事実です。
 ところが、それには次のような問題点があります。第三話の映画としての出来が良すぎるため第一話がいらないのではないか、というふうに多くの人にとられがちな点です。つまり、第一話の存在する意味がわからない。第一話は、原作者ポーの小説デビュー作です。また、映画化においても三話の中で一番制作費がかかっています。しかし、映画を見ていた私たちは、それがポーの小説の原作であることを実感する前に、この第一話は終わってしまいます。
 この物語の女主人公、若くて美しい未亡人、メッツェンガーシュタイン伯爵夫人ことフレデリックは、呪いをかけられて、自らの最期を受け入れます。最期にそうなることを望んでいたかのように、(炎に焼かれながらも)馬に乗って炎の中に消えてゆきます。私が子供の頃にこの映画をテレビで見た時、ある映画解説者(誰だったかは忘れてしまいました。)は『馬に乗る』ということは『×××をする』ということの象徴です、と教えてくれました。確かにその通りで、炎に焼かれながらも、フレデリック役のジェーン・フォンダさんは馬上で恍惚とした表情を見せてくれます。
 ところで、謎の黒い馬は、フレデリックの従兄のウィルヘルムの変わり果てた姿、すなわち、化身だったのでしょうか。映画解説者さんの「『馬に乗る』ということは『×××をする』ということの象徴」という説明は、その黒い馬が、彼女が恋してしまった従兄のウィルヘルムであると確信しての説明だと思われます。この映画を見ていた私たちもそう考え、さらに、主人公のフレデリックもそう思ったかもしれません。とすると、この映画は、黒い馬に姿を変えたウィルヘルムの復讐劇でしかなかったのかもしれません。
 その一方で、別の見方をすることもできます。実は、この映画は、メッツェンガーシュタイン伯爵夫人ことフレデリックの一人称映画なのです。彼女は、莫大な財産を相続して、勝手気ままな生活にふけっていました。金と権力を思いのままにできる彼女が、唯一手に入れることができなかったものは、従兄のウィルヘルムでした。彼を失うと同時に、彼女は身元不明の黒い馬に出会います。彼女は、その謎の黒い馬に身も心もはまっていきます。
 このようにこの映画をとらえるならば、これはただの復讐劇ではない、人間の心に抱く孤独と恐怖に関する何かを表現した小説的な内容であることが理解できると思います。
 とすると、ここに新しい考えが私には浮かびました。完全に別々の物語に見えていた、第一話と第三話が実はつながっていることに気づきました。もちろん、第二話も同様に、怪奇な物語としての共通点はあるのですが、第一話と第三話の関連性はそれ以上だったことに私は気づきました。
 『馬』を『フェラーリ』に、『炎』を『悪魔』に置き換えれば、第一話と第三話の結末が同じパターンになっていることが理解できます。しかも、主人公が自らの死に際(最期)を悟ってとる表情もしくは心情が酷似していることにも気づきます。
 つまり、第一話の謎の黒い馬は、主人公が愛着を持つ乗り物であり、第三話のフェラーリというスポーツカーと役割が同じ物なのです。第一話の炎は、ウィルヘルムやフレデリックの命を奪う物であり、第三話の悪魔と同じ役割を果たしていると言えます。そしてまた、最期を迎える主人公の喜びと悲しみ、快楽と苦悩の入り混じった気持ちは、第一話と第三話で共通しています。
 そのように考えると、第一話の何かのリフレイン(繰り返し)を第三話でしているように見えます。音楽で例えるならば、ABA’の三部形式の構成になっていると考えられます。第三話の結末が、(空中に張られた針金など)第一話と違うところがあるのは、ポーの原作の小説『悪魔に首をかけるな』の内容に従っている部分があるためです。従って、上に述べたように注意して見るならば、このオムニバス三作は、三部形式の音楽の楽曲と同じく、しっかりした構成で一つにまとまった映画であることが納得していただけると思います。