怖い話 その4

 今回はいよいよ私が、今まで見てきた中で一番怖かった映画について書こうと思います。それは『トビー・ダミット』という映画です。この映画は、だいぶ昔になりますが『世にも怪奇な物語』というオムニバス映画の第三話で、『悪魔の首飾り』という邦題が付いています。この映画は、エドガー・アラン・ポーの小説『悪魔に首をかけるな』(正しくは、これはこの小説の副題で、『トビー・ダミット』がこの小説の本当のタイトルだそうです。)を原作として、フェデリコ・フェリーニ監督により作られました。何といっても、少女の姿をした悪魔が怖い。ひとつひとつの映像が怖い。誰も考えたことも作ったこともない、こういう映画を作ったフェリーニ監督って、天才もしくは鬼才に違いない、と多くの人が思ったことでしょう。
 この『世にも怪奇な物語』という映画は、エドガー・アラン・ポーの小説の良さを知り尽くした、フランスとイタリアの三人の映画監督の競作による全三話のオムニバス映画で、特にその第三話はポーの原作の小説をはるかにしのぐ出来の良さで、多くの人からの賞賛を集めました。しかしその一方で、ポーの原作の小説は、それほど注目されることはありませんでした。原作となった小説と、それをもとにして制作された映画の間には、内容的に格段の差が見られました。主人公のトビー・ダミットの首を持ち去るは、小説では小柄な紳士になっていますが、映画では少女の姿をした悪魔になっています。また、フェラーリというスポーツカーは、原作の小説には出てきません。
 もともと、この映画は、ポーの小説の魅力を知っているヨーロッパの映画監督たちが、原作者であるポーのその魅力を伝えるために作られたはずです。残念なことに、私たち日本人は、当時ポーを正当に評価できなかったアメリカ社会の人たちと同じくらい、ポーの小説の魅力を知りません。ですから、(かつての私もそうでしたが)この映画を鑑賞しても、ただの怪奇映画の一つにしか見えず、わけのわからない映像の世界にただ驚嘆するばかりなのです。
 ところで、ポーの『黒猫』を知っている人は多いはずです。文学に興味があっても無くても、アメリカ文学を知っていても知らなくても、ポーの『黒猫』という小説はあまりにも有名で多くの人に知られています。この小説の詳しい内容を知らなくても、この小説のタイトルとおおざっぱなあらすじを知っている人は多いはずです。それゆえ、ポーが怪奇小説家であることをまったく知らない人を捜すほうが困難なほどです。
 つまり、ポーの小説のことをよく知らないで(予備知識なしで)この『世にも怪奇な物語』を見てしまうと、映画監督の力量ばかりが目立ってしまい、原作者のポーの魅力にまではおおかたたどり着けずに終わってしまいます。実はそれは仕方のないことなのです。なぜなら、ポーの小説ほど映像化の難しいものはないからです。
 例えば、『黒猫』はすでに過去に映画化やテレビドラマ化されています。その大半は原作に忠実に映像化されずに、翻案という形で制作されました。しかしながら、『世にも怪奇な物語』の『トビー・ダミット』ほどの知名度はありません。私が考えるに、これは『黒猫』という小説を映画化およびドラマ化しても、その映像の言わんとしていることが観客や視聴者にうまく伝わらなかったためだったと考えられます。その映像化の困難さの一例を挙げましょう。
 黒猫は、主人公の『私』にとって結局どういう存在だったのでしょうか。それは、主人公の『私』の良心の呵責もしくは良心そのものが、黒猫の姿になって現実の世界に現れた感じに、ポーの小説を読むと感じ取れます。それをそのまま生身の黒猫を使って映像化して表現することは不可能です。
 それとは対照的に、『世にも怪奇な物語』では、第一話で女主人公の後悔の念が黒馬の姿になって彼女の前に出現したと解釈できますし、第二話で悪事を行うウィリアム・ウィルソンが心の中に押さえ込んだ良心が、『もう一人の自分』となって現実の世界に姿を現したとみることができます。
 それと同じように考えて、第三話でアルコール依存症のために自他共に不健全な環境に取り巻かれる主人公にとって、その汚れた現実から逃れたい(フェラーリをぶっ飛ばしたい理由はそこにあります。)という願望が、悪魔をかわいくて清楚(せいそ)な少女の姿に変えてしまったとみることができます。
 (この話の続きは、次回の『怖い話 その5』に続きます。)