荒川放水路のナゾ

 東京都足立区の私の実家から南へ10分歩いたところに、西から東へ流れる大きな一級河川の荒川があります。私が小学生の頃、この川は荒川放水路と呼ばれていました。『荒川』なのに何で『荒川』の『放水路』なのかを、小学校では誰も疑問に思いませんでしたし、誰も先生に質問しませんでした。社会科の授業で使う足立区の地図には、『荒川』ではなく『荒川放水路』と書かれていました。みんな、そういうものだと鵜呑みにしていました。
 しかし、それにしても不思議です。何か秘密があるに違いありません。荒川は大きな川なのに、川筋が綺麗に弧を描いて流れています。それに対して隅田川は、荒川よりもずっと狭い川幅で蛇行して流れています。しかも、その水位が周りの土地よりも高いのです。これら見た目のまったく違う二つの川は、私の住んでいた町からずっと上のほうにある岩淵水門で一つになっています。私は、小学校の社会科見学でその岩淵水門に行ったことがありました。荒川も、隅田川も、どう見ても自然にできた普通の河川ではありません。そして、『荒川放水路』の呼び名の謎も、私が大人になるまでは何もわからないままでいました。
 二十代の頃、ある日、私は新聞に挟まれた『あだち広報』という足立区の広報誌でこんな小さな記事を目にとめました。『足立の歴史』という小さな見出しで、荒川の土手が作られたいきさつが述べられた記事でした。その記事によれば、現在の荒川は人の手で作られた運河なのだそうです。
 当時、運河と言えば、火星の模様は火星人が作った大きな運河ではないかとか噂されていました。そこまでいかなくても、スエズ運河とかパナマ運河とかは有名でした。人間が人工的に作ったそういう大きな水路というイメージが、『運河』という言葉にはありました。でも、そういうものが、私が住んでいた場所の近くにあったとは気が付きませんでした。たとえ気が付いたとしても、そう簡単には事実として受け入れられませんでした。
 なぜなら、私がまだ幼かった頃、大雨が降って、荒川の土手の一部が切れました。私の住んでいた家は浸水して、一階の畳はすべて二階に避難しました。私の家の近所もまた、浸水しました。つまり、その時、私の住んでいた町の人は皆、荒川は大雨が降ると水位が増して危険になることを知りました。その時は応急処置として、消防署や消防団が土手に土のうを積んで、災害が広がるのを防いだそうです。その後、まもなく土手全体を高くする工事が長期にわたって行われ、荒川放水路の水位の管理も岩淵水門でしっかり行われるようになりました。
 もしもその時、荒川が人造の運河であるとわかっていたら、その時の町の浸水は明らかに人災だと皆が思ったことでしょう。普通の川による洪水だと思い込んでいたからこそ、それは天災であり、仕方がなかったと誰もが皆思うことができたのです。
 しかしながら、私の家族のように昭和初期に浅草から足立区に移り住んだ人間は、江戸・明治・大正時代にこの地域で大規模な洪水があったことを全く知りませんでした。明治時代末期まで、現在の荒川が流れている場所の大部分が水田だったことも知りませんでした。その頃の荒川、つまり、旧荒川は、現在の隅田川が流れている場所にほぼ位置していました。その川は、文字通り、荒れる川(すなわち、荒川)だったそうです。台風や大雨が降るたびに、蛇行して、流れを変えて洪水を起こす、危険な川だったそうです。
 その荒れる川の治水のためにとられた対策の一つが、荒川の放水路を作るという大工事だったそうです。大正初期から昭和初期まで17年間も続いて大変な工事になったそうです。ダンプカーや重機などの無かったその時代は、ほとんどの作業が、人力を主力にしておこなわれていたそうです。が、まったく機械を使わなかったわけではありません。現在一般に知られている大型の蒸気機関車ではないものの、軽便鉄道で当時使われていた、線路の敷きやすい、小型の蒸気機関車が使われていたそうです。また、トロッコ付きの蒸気掘削機なるものがあって、機関車と組み合わせて、掘削機関車として使われていたそうです。荒川放水路の弧を描くきれいな曲線は、そうした機械の利用によって可能になったのかもしれません。
 つまり、これが、現在の荒川(荒川放水路)のナゾの対する答えでした。昔の荒川(現在の隅田川)の水位が増して氾濫しないように、岩淵水門で大量の水を放出するために人が作った大きな運河だったわけです。今では、夏になると規模の大きな花火大会がその河川敷きで開かれて観光目的に使われていますが、本来は、東京と埼玉にまたがる広い地域に住む人々を洪水から守るために作られた重要な人工物なのです。その本来の目的が果たせるようになったからこそ、荒川放水路一級河川の荒川として現在一般に認められるようになったのです。