「やれるもんならやってみろ。」

 私がこの言葉を聞いたのは、ある日のテレビニュースを見た時でした。記者団の追っかけマイクに向かって、石原都知事がそう返答されていました。そこで問題になっていたことの是非はともかくとして、ネット上では「やれるもんならやってみろ。」と石原都知事にオウム返しする怒りの意見が多く見られました。
 しかしながら、知事のこの言葉を冷静に考えてみるならば、決してただの八つ当たりではありません。相手に喧嘩を売っているように見えて、そうではありません。意見の対立から喧嘩になってもそれを辞さない、という強い自己主張を守る姿勢が見られます。
 それだけではありません。こっちもやることや主張することに責任を持つから、それに反対するなら、そのことに責任を持って反対しなさい、と相手に伝える姿勢が見られます。つまり、お互いの立場にお互いそれぞれが責任を持って、主張し行動すべし、と自他共に求める姿勢が見られます。お互いの対立から第三者が損害を被る場合は、それぞれが第三者に対して責任を持って主張し行動すべし、ということなのです。
 ところで、私は、学生運動に参加したことがありませんし、大学で中核派の活動に参加したこともありません。私の親は私に、そうした学生運動に参加してはいけないと教え込みました。将来のある身である学生時代をそんなことに使ってはいけない、と私は親から教えられ、それに従いました。世間一般の現在の若者たちは、多かれ少なかれそんな私の若い頃と同じ経験をしているのではないかと思います。
 国の権力の象徴である成田空港に隣接する土地で、地元のお百姓さんのためにヘルメットをかぶって鉄パイプを振り回していたお兄さんがいたとしましょう。彼が誰だか、私は知りません。けれど、彼が国家権力に反旗をひるがえして、口にした言葉はおそらく「やれるもんならやってみろ。」というこの言葉だったと思います。
 それが良いか悪いかは別として、その精神はわかります。しかしながら、会社に雇われて面倒を見てもらっている立場の若者が、この言葉を口にする勇気はありません。そんなことを会社に向かって、上司に向かって言ったものなら、確実に会社をやめさせられます。若者にとって、会社でクビを切られることは、命を絶たれるのと同じことです。間違っても、それを口にはできません。
 したがって、ネット上の怒りの意見には、個人的な感情とは別に、サラリーマン的な危機感情も多少は含まれていたと、私は見ています。サラリーマンが人前で口にしてはいけない、タブーな精神を含んだ言葉なのです。しかるべき責任をとれる覚悟が無ければ、とてもじゃないけど口にできない言葉です。
 でも、私は、こう思います。若者には、単なる口真似ではなく、本心からこの言葉を言えるような人になって欲しい。しかるべき責任をとる覚悟で、会社や社会に対して、この言葉を発言し行動できるようになって欲しいと思います。それには、いろんな困難が伴います。耐えがたい苦しみを負うかもしれません。けれども、自分自身の言動に責任が持てるようになるチャンスでもあるので、勇気を持って欲しいのです。
 私は、東京で生まれ育って、東京の学校で学び、東京の会社で働いていました。そのために、よそ者への冷ややかな意識を石原都知事にずっと抱き続けていました。東京に暮す人間の気持ちがわかってもらえているのか、長い間確信が持てなかったからです。だから、私は、都知事選で石原氏に一票も投じたことがありません。
 しかし、あの記者団のマイクへの発言をテレビで見て、私の持っていた不信感が根も葉も無かったことに気づかされました。規制の是非はさておき、そのような発言をされた都知事の人柄から推測して、都知事の背景には多くの人の思いが感じられました。それを代表しての知事の発言であり、個人的で横暴な発言(一般的には、そのように見られていることもあるようですが)では決してないことが、その時わかりました。もしも、今私が東京都民でいたとしたら、おそらく石原氏に迷わず一票を入れていたと思います。
 東京都心は、全国から集まった人たちの単なる寄せ集めではありません。外見上そう見えても、本質は違うと思います。日本各地のあらゆる価値観が集まって、渦巻いている、『まとまりにくい』集団です。それを引っ張っていくには、かなりの覚悟が必要だと思います。会社内だったら、意にそぐわない社員はクビにできます。しかし、東京都民を自称する人々を東京都内から締め出すことはできないと思います。(本当のことを言えば、私なんかにこんな偉そうなことを言える権利などありません。つい書いてしまいましたが、本来は、外野として黙っているべきです。)