私のプロフィール 宮本武蔵と呼ばれた男

 中学二年の担任の先生の家庭訪問のことを思い出しては、今でも私の母はこんなことを私に話すのです。「宮田先生(中学二年の担任の国語の先生)が、『黒田くんは宮本武蔵だね。』と言ってたよ。」と、私の母は余り気分よくなさそうにいつも私に言うのです。親として、宮本武蔵のような子供がさも扱いにくかった、といった口ぶりなのです。
 現代社会において、「宮本武蔵だね。」と言われることは、「君はかなり時代遅れな人間だね。」と言われるのと同じことらしいのです。学校生活や社会生活の中で、地道に努力をする、古風で融通の効かない、ユニークなキャラクターを指すようです。
 一人だけ周りの人とは違うことをしていても、その不自然さに気がつかない。自分なりの道があることを信じて、我が道を行くしかない。地道に物事を進めていけるわりには、要領が悪くて、苦労を人一倍背負ってしまう。それは、ひとことで言って、現代社会に生きるには損な性格です。
 当時、同級生だった森君は、そんな私とは正反対の性格でした。彼は、宮田先生の言葉を借りればまさに『現代っ子』でした。何をやらせても、合理的に物事を考えて、要領よく片付ける。いわゆる模範生徒でした。実際彼は、内面だけでなく外見も素晴らしかった。顔や体つきがキリッとしていて、学生服もピッチと着こなしていました。目がきょろっとして、眼力があり、メガネを必要とせず、成績優秀で、同級生みんなの先頭に立って、クラスの女子にも人気がありました。それにひきかえ、私は、体が痩せ型で少々頬がこけて、繊細で地味な感じで、当時は見た目に元気がありませんでした。
 私は、彼のことがいつも羨ましかった。でも、彼のようにはなれない。担任の先生に匿名で、こんな暑中見舞いの葉書を出した事がありました。「世の中、要領のいい人間が得をして、要領の悪い人間が損をします。これでいいのでしょうか。」2学期が始まってある日の授業で、宮田先生は、夏休み中にこんな匿名の葉書をもらったと、クラスのみんなの前で話しました。「要領が悪いからといって、その人の人生が損だとは限りません。」と、先生はおっしゃいました。でも、それを聞いても私は納得いきませんでした。クラスのみんなは、何事にも要領よくやっているじゃないか。校舎から離れにある図書館の掃除とか、先生の目の届かない時など、サボってやっていないではないか。真面目に熱心に当番をしていると、つきあい悪いなあ、と言って人を鼻で笑っているではないか。そうした現実に押しつぶされながら、私は真面目に行動して損ばかりしている。だから、心の内では、「先生、何言ってるんだ。」と思っていました。先生のおっしゃったことが、余りに現実離れしているように思えて仕方がありませんでした。(でも、ここで先生に手向かうと、匿名で葉書を出した意味が無くなってしまうので、結局私は黙っていることにしました。)
 宮田先生が、なぜあの時あんなふうに言えたのか、私は今になって考えてみるのです。先生は30代の独身女性でしたが、美人ではありませんでした。失礼ながら申し上げますが、漫画コミックスの『オバタリアン』の主人公そっくりの顔と体つきでした。先生に恋をするなどということは全く誰も考えられませんでした。先生に叱られても、家の近所のオバサンに注意されるのと全く同じに受け取っていました。それで独身だったのですから、もしかして、と私は推測するのです。結婚できないくらい、要領が悪かったのは先生のほうではなかったのか。だから、先生のおっしゃったことには実感がこもっていたのではないか、と。
 今だからわかるのですが、若い頃の私はかなりの臆病者でした。友人や先生や親などの相手と面と向かって口論をしたことが無い、大人しい性格でした。そのくせ他人からはいきなり叱責をかうことが多かったのです。私は、とつぜんのことでわけが解からず、おろおろしてしまいました。他人から自分がどう見られているのか、ということを余り気にしていなかったのは良いのですが、余りに無頓着すぎました。他人をイライラさせている自分自身の姿や言動に、私は全く気付いていませんでした。
 例えば、服装検査で先生がパーマをかけている生徒がいないかチェックしている時です。私は、「先生、僕は大丈夫ですか。」と聞いてみました。先生は、髪の毛の手入れを放ったらかしにしている私の頭を触って、「天然パーマだね。」と言いました。その様子を見て、カチンときたクラスメイトがいたことを私は知りませんでした。彼らはおそらく、髪の手入れをよくして清潔を保っていて、ついでに校則違反のパーマをかけていたらしいのです。手入れもせず、無造作に髪の毛がチリヂリになっている私を見て、いやな気持ちにならないはずがありません。「こいつ、楽をして、先生にひいきにしてもらおうとしているな。」と思われていたらしいのです。
 また、私は中学生時代に学生服を夏冬兼用で一着しか持っていませんでした。私の家が貧乏だったからではありません。私の母も父も、祖父と祖母のW介護で忙しくて、服装に無頓着な私に注意を払ってくれなかったからです。しかも、私自身にも強情なところがありました。一度これはこうだと決めつけてしまうと、誰がどう思おうとおかまいなしになってしまいます。まわりの同級生の冷たい目に、私は無頓着すぎました。私は、学生服が常に一着あれば、エコで、経済的で、お金がかからなくていいじゃないかと当時は考えていました。しかし、まわりの同級生たちの考えは違いました。服装にお金をかけないのは、ズルをしている、と私は見られていたのです。みんな夏は薄手の生地の服を、冬は厚手の生地の服を学校に着てくるのに、何でお前だけそれに従わないんだ。ユニークだけども、気に障るヤツと、思われていました。
 さらに、学生帽に関して、私は母から当時のことを蒸し返されて、あの頃のお前をはたから見ていて恥ずかしかったと聞かされました。中学入学当時、私の中学校では、男子生徒は登下校時の学生帽着用が校則で義務付けられていました。私が中学二年のちょうど半ばの頃に、その校則が少しだけ変わって、登下校時は学生帽をかぶってくる事は任意でよいことになりました。すると、男子生徒のほとんどは学生帽をかぶるのをやめました。ところが、私は中学卒業まで一人だけ登下校時は学生帽をかぶっていました。私は、学生帽をかぶるのは校則違反でないと考えていたので、たった一人で学生帽をかぶっていても何も気にしていませんでした。校則違反でないので、誰にも注意はされませんでした。ただ、同級生からは、真面目で近寄りがたい、お固い人間に見られていたようです。当時の私の愚かさは、それすら私自身、気がついていなかったことにあります。当時の私を、母は見て、みんなから一人だけ違うかっこをしていることをおかしいと感じ、いやだと思っていたらしいのです。が、私に遠慮して、そのことを注意しなかったのだそうです。
 そして、さらに、高校受験にあたっては、無茶としか言いようのないことをしてしまいました。都立高校の受験一本で行くと、親にも先生にも言い張ったのです。一つレベルの低い私立高校を滑り止めに受けるのが、当時の中学三年生が普通にやっていた方法でした。そして、ランクの一つ高い本人の行きたい高校を目指すという方法を同級生みんながとる時代でした。そんなご時世に逆らって、私は、お金のかからない都立高校を希望し、それも石橋をたたいて渡るかのようにーつレベルの低い都立高を受験したのです。それが不合格になった場合は、私の親の家業を継いで、溶接屋さんになろうと思っていました。しかし、当時は、日本の学歴社会の真っただ中で、より学業成績ランクの高い学校に合格することを目指して競争していた時代でした。よりいい学校に行き、よりいい会社に入り、出世をして、幸せな結婚をし、幸せな家庭を築く。そういう夢を、若者みんながあこがれて頑張っていた、そういう学歴社会の時代がこの日本にありました。ところが、私はそうした世の中の流れを知っていたにもかかわらず、反抗してしまいました。さしたる理由もなく、誰かにその理由をたずねられたら、きっと世の中の流れに従ったことでしょう。けれど、誰も私にそれをたずねてはくれなかった。わずかに、「お前は楽をしている。」という一言とボディ・パンチをクラスの男子生徒全員一人一人から浴びせられたに過ぎませんでした。そんな集団リンチなど、黒田家で幼い頃から叩き込まれた我慢のしつけに比べれば、何の効果もありませんでした。私は、都立高校一本を受験して、予定通り合格しました。
 このいきさつを今になって考えてみると、私の独断があながち間違っていたともいえないことが、後になって判明しました。一つランク上の高校に行った同級生の中には、授業が難しくて、成績が落ちたり、最悪授業についていけなくて退学してしまう者もいたそうです。競争社会というものは、常に上には上がいて、たとえナンバー・ワンになっても、かならず次のナンバー・ワンに蹴落とされるものなのです。ナンバー・ワンを維持するためには、卒業するまで相当無理をし続けるしかないのです。もっとも、中学三年生当時の私は、そこまでは考えていません。ただ漠然と、勉強で他人と競争し続けるのがいやだったのです。勉強を、他人を意識せずに自由な気持ちでやりたかった。受験勉強にこだわらないで、生活に必要ないろんなことを学びたかった。と、当時の私はちょっと理想的に考えていました。当時の学歴社会において、私のこの考え方はあまりに真面目すぎて、話にならなかったと思います。無理をして上のランクの高校を選ばなかった、この真面目な私の姿勢こそが、いかにも『宮本武蔵』っぽいところだったと言えましょう。
 以上こうしたことを思い返しても、私は未だに自責の念にかられることがありません。当時の自分を、未だに「恥ずかしかった」と後悔することすらありません。これはどういうことかというと、それが私だったからです。たとえどんなに未熟でも、ダメだったとしても、世界にたった一人しかいない私なのだと思うからです。私の性格は、当時からまさに『宮本武蔵』だったのです。
 私の母と宮田先生は、こんな話もしていたそうです。私が後日、母から聞いた話によると、森君のように現代的で要領のいい男の子ならば、恋愛や結婚相手の女性が簡単にみつかるでしょう。でも、黒田君のように『宮本武蔵』だと相手の女性を置いてきぼりにして自分自身の道を突き進んでしまうので、一般的には相手の女性は誰も黒田君に追いついていけないんじゃないかなあ、という話の内容だったそうです。そうです。これこそが、宮本武蔵宮本武蔵であるゆえんであり、本質なのです。
 映画やドラマや漫画の『宮本武蔵』の物語には、お通さんという女性が出てきますが、どう見ても架空の女性のように思えて仕方がありません。あんな女性がいるわけがありませんし、いても『宮本武蔵』には迷惑なだけです。「その代わりに。」と、ここから私の妄想がはじまります。『宮本武蔵』は一人だったけれども、『宮本武蔵』がもう一人いてもいいじゃないか。『宮本武蔵』はもう一人の『宮本武蔵』を排除するほど馬鹿ではない。『宮本武蔵』は有名になることよりも、己の道を究める(研究する)ことに向いているので、同じタイプの相手と反目することは意味がないと思うのです。
 私自身は、『宮本武蔵』の性格をどう思っているのでしょうか。答えは、「まわりが騒ごうと、逆に騒がなくなっても、全然気にしない。」ということになると思います。たとえどんな境遇にあっても、その境遇が変わっても、自分なりの道を忘れなければ、それでいいのです。仕事を習得する要領はよくても、日常生活の中での要領や、人とうまくやっていくための要領は多少悪いかもしれません。でも、それほど気にする必要は『宮本武蔵』にはないと思います。