私のプロフィール 続・家族の中の孤独

(以下の記事は前回の『家族の中の孤独』のつづきです。 副題:『早い話がぁ』)
 私の父は、人前では、聞き上手だね、と評判でした。本人もそう思っていたと思います。しかし、実際は本人の思い込みに過ぎませんでした。他人のお世辞に気を良くしていただけだったのです。
 その時も、初めに私が一つの事を言い終わるまで、父は一言も口にしませんでした。黙って全てを聞き入っているように、まわりからは見えました。額に少ししわをよせて、じっとして親身に相手の話を聞いているように見えました。私が言葉に詰まって一息つくと、父は決まって次の言葉で切り出すのです。「早い話が。」
 「早い話が、俺は中学までしか出てないけれど、早い話が、お前はそう言うけれど、早い話が、それは学校や会社で何とかすることで、早い話が、家の中では話すことじゃないよ。」という調子なのです。私は父が本当に私の話を聞いてくれているのか疑問に思って、前とは違った質問をしてみるのですが、父はいつでも「早い話が、お前はいろいろ言うけれど、それは早い話が、ここで話しても何にもならないことで、早い話が、家では黙って大人しくしていなければ、早い話が、どうにもならないことなんだよ。」と言うのです。
 ここからが大変です。父の言ったことに対して私が何か言おうとすると、父は慌てて、「早い話が。」「早い話がさあ。」を連発します。何か私が言い出しそうになるたびに、それをさえぎって、べらべら説得の口調で父はしゃべりまくるのです。しかも、何を言っているのか、さっぱり解かりません。相手を説き伏せる立場にいるというムードを一人で楽しんでいるだけで、相手が話したがっている気持ちを一切無視して話し続けるのです。
 聞き上手の評判はどこへ行ってしまったのでしょうか。と思うくらい、「早い話が、ああだこうだ。」と延々と説得口調でべらべら話し続けるのです。その演説中に、私がちょっとでも口をはさもうものなら、「ちょっと待った。早い話が。」とか「ちょっと黙ってろ。早い話が。」とか「ちゃんと人の話を聞いてろ。早い話が。」とか「なんだお前は、うるさいな。早い話が。」などとヒステリックに言葉を返して、中断した演説を再び続けるのです。
 とうとう私のほうがあきれて、疲れた様子を見せると、「早い話が、お父さんはそんなにお前のことに口出ししたくないんだよ。」といつも父は言います。そう言いながら、「早い話が、そういう訳だから、ここではいくら話しても結論は出ないし、早い話が、いくら話してもムダなことなんだよ。」と、私の父は自らの立場を正当化して見せるのです。
 こうした父の態度に、もし私が一度でも反抗しようものならどうなっていたでしょうか。人間関係を改善するトリックスターの考え方からしたら、強引な父に反抗すべきだったかもしれません。実際には、私はそんな父に反抗したことは一度もありませんでした。私は生まれてから父と死別するまでの40年間、父がどんなに感情的に噛み付いてきても、父の前では一度も感情的になったことがありませんでした。あまりにひどい仕打ちで感情が抑えられないときは、自分の部屋に引きこもって自分の頭や顔を殴って気持ちを静めました。
 こんなことは、普通の親子関係では考えられないかもしれません。がしかし、私は父にゆがんだ愛情を持っていたのかもしれない、と今になって思うのです。私が父の前で感情をむき出しにして怒ったり、暴力で父を傷つけることは、どうしてもできなかったのです。思いやりが全く感じられない父であっても、子供の私を義務とはいえ経済的に生活を支えてくれたことに何の変わりもなかったと思います。また、私の父は子供たちの前では生活態度が真面目で、くだけた言動を全く見せませんでした。それも、完全に義務的なもので、本心は違っていたのですが、その本心さえも子供たちには隠していました。
 父の前で感情をむき出しにして本音を言うことができなかったことを、私は今でも母や妹から非難されます。「国男(または、お兄ちゃん)は、どうしてあのときお父さんと喧嘩しなかったのか。どうしてあんなに仲が良かったのか。こっち(母と妹)は、見ていていらいらした。」と今になってよく言われます。また、父の葬式の時に集まった親戚の人たちからも、「君。あんな親父とよく仲良くやっていけたね。」と言われて、私は本当にびっくりしてしまいました。私は、私の父と仲が良かったのではなく、喧嘩をしないようにしていたのであり、どんなことがあっても父とは波風を立てたくなかったのです。まわりの人たちは、本当にわかってないなあ、とそのつど私は思いました。
 でも、本当のことを言うと、私は父と感情的にやりあうのが怖くて逃げていました。若い頃の私は、意外と臆病者だったのです。事実、父の前で感情的になると、恐ろしいことになることを私は解かっていました。
 ある日を境に、私の母や妹は、そんな父に感情的になって向かっていきました。祖父や祖母は、寝たきり老人になっていたので、監視も何もその頃にはありませんでした。私が家にいた時に怒鳴り声や言い争う声を聞くこともありましたが、私は勉強とか仕事に忙しくて、その仲裁に入ろうとは思いませんでした。(臆病者ですから。)その結果、父は目をむいて怒り出し、右肩を極端に吊り上げて(背の高い母や妹に比べて、父はチビだったので。)、唇をブルブル震わせて、「早い話が。」と相手の話すのをさえぎって、べらべら声高らかに話し出すのです。それは全くの説得口調で、相手の話など一切理解せず、相手の言葉尻をとらえては、「早い話がさあー。」と言ってからべらべら喋って反撃し出すのです。相手が話し疲れるまで、それは延々と続きます。それは全く異常なのです。話し好きの長野県出身者である母でさえも、父のこの攻撃には最後には黙るしかありませんでした。
 私の妹は、それでもお父さんはすごく優しい人だ、と言っていました。私の妹は、父と性格がそっくりで、神経質で真面目な性格でした。が、結局妹は大人になってから心に異常をきたしてしまいました。父はそんな私の妹のことを優しく思いやるどころか、「俺は一生懸命働いてきたのに、娘が精神の病になるなんて、そんな馬鹿なことはない。」と言い切って、自らを正当化することしか考えてくれませんでした。
 私は、妹のこの問題で父を責めたことはありません。が、父のような人間とまともにつきあって話をしようとしたら、きっと精神的におかしくなるだろうな、と思っていました。だから、大人しいふりして、イエスマンのふりして、うわべだけつきあっているふりして、深く付き合わないほうが利口だとずっと考えていました。
 一方、私の母が、妹のように精神的にダメージを受けなかったのには理由がありました。母は、父から何を言われようと、言われたことを理解できませんでした。そのことで、さらに父の怒りを買ってしまい、相当ひどいことを父から何度も言われました。しかし、何でそんなに怒っているんだろう、何か自分が悪いことでもしたのかな、位に考えていつもおおらかな気持ちでいたそうです。言われたことを理解できなくても、私の父を信じ、愛していたので、精神的におかしくならなかったというわけです。
 ところで、私の父はなぜ、あんなだったのか。何を考え、思っていたのか。そのことを、憶測のそしりを免れないかもしれませんが、私なりに想像してみました。私の父は、淋しがり屋でした。若い頃かなりのイケメンであったにもかかわらず、祖父母の厳しい監視の目と、任された自営業の仕事の忙しさのために、青年期はもとより成人してからも異性と遊んだ経験がありませんでした。そのため、私の母を女として(つまり、甘える対象として)独占したいという気持ちに執着してしまいました。私の母が子供と一緒に話をするだけで,私の父は気持ちが落ち着かなくなりました。子供に妻を奪われてしまうのではないかという不安が、いつも父の心の中にはあったようです。母と子の絆のために、家族の中で、父自身が孤立してしまうのではないかと心配していたみたいです。家族の中での孤独を、淋しがり屋の父は一番恐れていたのです。
 真面目すぎた父は、私の母としか若い女性と出会っていなかったのでしょう。そのため、亡くなる数日前に若い看護婦さんに優しく話しかけられただけで参ってしまい、私の母のことを、あのババアと私に毒づいてしまいました。
 あくまでも自分を大切にすることと、自分の言動に責任を持つことを前提にして言わせてもらいますが、異性の気持ちとか人間としての共通意識とかを知るためにも、若い頃に異性と付き合った方が良いのではないかと、私は父の姿を思い浮かべるたびに思うのです。そういう私は、どうなんだ、何でそんなことを知っているのかと質問される方があるかもしれません。この件に関しては、ここでは秘密にさせていただきます。どうしても知りたい方には、いつか別の方法でお伝え致します。ただ一言言わせてもらえば、無理に異性と付き合わなくても、これくらい分からないようでは大人にはなれないのではないかと思います。
 つまり、私の父は私の母を独占したくて結婚したのですが、その結果子供ができてしまいました。子供の面倒をみることは、結婚によって生じた義務としか考えていなかったようです。心の貧しい人だとしか言いようがありません。そのせいで子供たちが負ってしまった精神的な傷は深そうです。おそらく、そう簡単には直らないことでしょう。
 前回は私の母に関しての、そして、今回は、私の父から受けた精神的な負債について書いてみました。実は、まだあるのです。黒田家のしきたりがどうしても良くない結果を現在に残してしまったようです。それについては、次回の記事に書こうと予定しています。
 かなり話が長くなりましたが、父に対する私の妄想を書いておこうと思います。私は、全て父が悪いのだとか言うつもりはありません。当然、私自身にも悪いところはあったと思います。けれど、私はまだこれから生きていくわけですから、過去に背負った精神的な負債を何とかして撥ね退けなければ生きてゆけません。そのために何を考えているかを以下に述べます。
 私の父は、まだ60代の若さでこの世を去りました。胆のうガンを長い間わずらっていたそうです。が、私には、私の父が亡くなった理由が、別にあるように思えてならないのです。仏教における因果応報と申しましょうか。私の父は、ご先祖様に呼ばれたように思えて仕方が無いのです。私の父からすれば、「家族や自分の生活のために働くので精一杯で、俺は何も悪いことをしていない。」と、えん魔さまの前で主張したかもしれませんが、確実にえん魔さまに舌を抜かれて地獄の火で焼かれたことでしょう。
 あの日、私は、父の入院した病院の、特別な個室に呼ばれました。母に交代しろと言われて、父の死に際に一人で立ち会いました。父はもう何も話せなかったのですが、最後まで目と体全体で私に何か謝っているように見えました。亡くなる直前で、父も分かったのだと思います。おそらく、私の父は、ご先祖さまに「お前が生きていたのでは、黒田の家は子々孫々ダメになる。だから、こっちへ来い。」と呼ばれたのだと思います。こんな話は、何も根拠の無い作り話にすぎないのかもしれません。しかし、私にとっては、父の早すぎる死をこうでも考えないと納得がいかないのです。こんなことを考えてしまうこと自体が、私自身の心の負った傷の深さを表していると思います。
(この記事の続きは、またしばらく後に記載します。)