続・役者について思うこと

(この記事は、『役者について思うこと』のつづきです。)
 「役者は芝居で自分の本当の姿を表現できない。」とするならば、それはどういうことなのでしょうか。そのことを考えてみようと思います。
 前回述べたように、私は中学二年の夏に日光林間学校の夕食後のミーティングでメロスの役をやらされるはめとなりました。
 それに先立って夕食前に、私は監督の寺田君に質問をしました。メロスが全裸で走るシーンがあるけども、どうしたらいいのか、と。寺田監督の答えはこうでした。着ている体操着の上下を脱いで、その下の短パンも脱いで、下着のパンツ一枚になればいいじゃないか、と言われました。そのように簡単に答えられてしまった私は、「そうだね。」とあっさり納得してしまいました。
 それは、自分自身のためではなく、メロスの役のためだから、と思いました。自分をさらけだして、いい演技をしようとか、ありのままの自分を見せたい、などといったこととは違います。この場合、裸になったからといって、まわりから「黒田はそういう変な人間なんだ。」と思われることはまずありません。逆に、「裸になるなんて、すごいなあ。」と思われることもなかったでしょう。そんなことで、同級生のみんなが感動することは、まず無かったと考えられます。観る側も演じる側も共にクールでした。それじゃあ何のために、下着のパンツ一枚で駆け回らなければいけなかったかといえば、それはメロスがそういう役だからです。誰もやりたがらないわけです。国語の教科書に、それはそう書かれているのですから。「メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。」と小説に書かれているのですから。その通り、それに従ってメロスの役をやっても、当たり前のことですから別に何の反響もありませんでした。
 それはさておき、役者さんの本当の姿や素顔は、顔を覆ったベールや仮面の後ろに隠れているような単純なものなのでしょうか。直感的に想像するイメージとしては、それで十分なのかもしれません。ベールや仮面を脱ぎ捨てれば、役者さんの本当の姿や素顔が見れるわけです。役者さんが自分自身をさらけだすのは簡単なわけです。が、私は、それは難しいのではないかと考えました。ベールや仮面のイメージから一歩進んで、人形劇の『あやつり人形』と『黒子』の関係に着目してみたいと思います。テレビ・映画・演劇いずれの場合も人形劇に置き換えて、役者さんのイメージと素顔の問題を考えてみることにしましょう。
 私たち観る側(以下、これを『視聴者』と呼びます。)は、役者さんを意識する時、ある誤解が生じます。ドラマや芝居を見て、役者さんの演ずる役がすなわち役者さん自身であるかのように錯覚します。実は、それは役者さん本人でも役者さんの素顔でもありません。それは、ドラマや芝居の中の役に過ぎないのですが、視聴者は、(しばしば、役者さん本人も)それが役者さん本人の本当の姿であると誤って意識してしまいます。それを、精巧にできた『あやつり人形』だとしましょう。視聴者は、その『あやつり人形』を見て、この役者さんはカッコイイな、とか、キレイだな、とか、カワイイな、とか、イヤだな、とか思うのです。この役者さんは、役が上手いとか、下手だとか思います。つまり、視聴者はこの『あやつり人形』を見て、感動したり、何かを考えたりしているのです。
 おおざっぱに言えば、役者さんはこの『あやつり人形』に体を貸している、と見ることができます。同様に、声優さんだったら声を貸している、と考えられます。視聴者は、『あやつり人形』の体(または、声)を役者さん(または、声優さん)の体(または、声)と同一視してしまいます。役者さん自身も、しばしばそのように思い込みがちです。しかし、『あやつり人形』は単独では何もできません。必ず『黒子』がいて、『あやつり人形』を操作します。役者さん本人は、黒装束に身を包み、『あやつり人形』の陰に隠れて見えません。つまり、『黒子』なのです。よって、『あやつり人形』の前にしゃしゃり出るわけにはいきません。どんなに『あやつり人形』の操作が上手くても、『黒子』が脚光を浴びることはありません。脚光を浴びるのは、あくまでも『あやつり人形』なのです。
 『あやつり人形』は視聴者から評価をされ、脚光を浴びます。クールに考えるならば、『あやつり人形』は、役者さんの体を借りて作られた『作品』であると見ることもできます。
 実は、役者さん本人以外にも『黒子』はいます。ドラマや芝居の制作スタッフはすべて『黒子』です。演出・脚本・衣装・ヘアー&メイク・大道具・小道具・音声・照明・カメラ・編集…等等の裏方さんもすべて『黒子』です。こうした沢山の『黒子』に『あやつり人形』は支えられています。このことを視聴者は忘れがちです。例えば、どんなにキレイな女優さんがいたとしても、これらの裏方さんの『女優さんをキレイに見せるテクニック(技術)』が無ければ、視聴者には伝わりません。『黒子』の存在が直接わからないのと同様に、『黒子』の技術も視聴者はじかに感じることはできません。それらはすべて『あやつり人形』に集約されます。『あやつり人形』を通じて、『黒子』の技術や主張は一つにまとめられて、視聴者に伝わるのです。
 要するに、役者さんは、以上のような『あやつり人形』と『黒子』との関係による人形劇の構造の中で生かされている存在であるといえます。それゆえ、役者さんは個人的に本人自身の本当の姿とか考え方とかを表現しづらいのではないか、と私は思うのです。簡単にはプライベートをさらけ出せないようになっている。どんな仕事でも、仕事とはそういうものです。それに従っているから、『役者』はお金をもらうための仕事の一つとしては確立しているのだと思います。ですから、私に息子や娘や孫がいたとしたら(実際はいませんが、もしもいたらの話です。)、きっと彼らにこんなことを言うに違いありません。「死体の役でも、汚れ役でも、何でもいいから、面白いからやってみな。」「役者になってみな。」と彼らに勧めると思います。才能の有無は別として、いろいろなことを学べる仕事の選択肢の一つではないかと、私は見ています。