意識せずとも仏教徒

 ネットのAMAZON(アマゾン)でお坊さんサービスが始まったというニュースを知って、考えたことがあるので述べてみたいと思います。ネットでお坊さんを手配すること自体、賛否両論はあると思いますが、ここではそれをまともに論じないこととします。ただし、一言だけ言わせていただければ、従来の檀家(だんか)制度に頼らないお寺さんの方が、これからは信者を増やせるような気がします。それに、日本でこうしたシステムができるということは、キリスト教イスラム教もいずれは、神父さんのネットによる手配が普通になるかもしれません。
 私たちは、よく人と出会った時に、頭を下げてお辞儀をします。しかし、キリスト教イスラム教を信仰する外国人のほとんどには、そうしたお辞儀の習慣が無いのが普通です。もしも彼らがお辞儀をしたとするならば、仏教徒の私たちの習慣に合わせているにすぎないのかもしれません。
 少し前になりますが、安倍総理が、オバマ大統領やケネディ駐日大使と、日本の寿司屋さんの前で出会った時に、お辞儀はしないで、握手をしていました。それを私はテレビで観て、日本人は外国人に対して、そのような『習慣的に些細なこと』に注意しなければいけないのだなと思いました。
 かつて私は、茨城県のある農業法人に研修に行った時に、そこで働いていたイスラム教徒のインド人のお兄さんたちに出会いました。休日に道端で彼らの一人に出会ったので、私はお辞儀をしました。ところが、彼は私をじろっと見てそのまま無言で通り過ぎて行きました。そこで一瞬、私は「無礼な!」と思いました。けれども、そのことによって、私自身が仏教徒であり、彼から見れば私自身が異教徒であったということに後から気づきました。彼らが頭を下げるのは、メッカの方向にであり、アラーの神に対してです。そのことを知らずして、彼らを無礼に思うのは、まさに無礼なことと言えましょう。
 日本に住んでいて、キリスト教徒の人も少しはいても、ほとんどの人は仏教徒なので、私たちは普段はこのようなこと(つまり、他者との宗教の違い)を意識してはいません。お葬式などで、仏教の宗派の違いで他者の習慣や様式が違っていることに気づく程度です。日常生活では、それほど支障は出ていなかったと思います。普段は、仏教徒であることさえ、それほど自覚することなく生活しています。それによって、異教徒である外国の人たちを、ビジネス上のお客さんとして比較的簡単に受け入れることができるのです。
 しかし、それで良いことばかりだと思ってはいけないと思います。お辞儀の習慣もそうですが、私たちは、仏教徒であることを、異文化や異教徒を知るための第一歩として、しっかり自覚しておくべきだと思います。それが、キリスト教徒やイスラム教徒に対する『なぜ?』に答えを見い出す第一歩になるはずです。
 例えば、よく海外ニュースでイスラム教徒のテロリストが犯行後に「神は偉大なり。」とアラビア語で言ったと報じられることがあります。これは、かれらテロリストの決まり文句のように感じられるかもしれません。けれども、本当にそうなのかと疑ってみたいところです。ところで、キリスト教では『全知全能の神』("the Almighty God"あるいは"God Almighty")とか「神を讃(たた)える」("glorify God")という言い方があります。それらから推測してみると、まわりの反対などで実現できそうになかったことが実現できてしまった時に、神に感謝するという意味で「神は偉大なり。」と口にしたと考えられます。このような私の考えは、どこか間違っている所があるかもしれませんが、私にはそのように思えて仕方がないのです。「神は偉大なり。」という意味のアラビア語は、決してテロリストの専売特許ではなく、普通の人が使っている言葉のように思えて仕方がないのです。難しい試験に合格したとか、サッカーで相手チームに勝ったとか、金メダルを獲得したとかいう時に、普通に習慣的に使われているような気がしてならないのです。
 ところで、仏教の教えをひろめるためのお坊さんの試みの一つとして、仏教の言葉を英語で説明しているという現場が、テレビでは紹介されていました。『諸行無常』を、"Everything is changing."(「すべての物事は変化している。」というような意味)と説明しているのだそうです。そこで、私は辞書を調べてみることにしました。"Everything is evanescent."とか"Everything is transient."とも言うそうです。'evanescent'とは、「消え(去っ)てゆく」「はかない」「つかの間の」という意味だそうです。また、'transient'とは、「永久的でない」「一時的な」「つかの間の」「はかない」という意味だそうです。「過ぎ行く過程にある」という感じで、"transient happiness"(『つかの間の幸福』)とか"transient passenger"(『通過客』)というふうに使われるそうです。こうしたことから、『諸行無常』を"All things pass."(「すべての物事は変化推移する。」)というふうに表現することもできるそうです。
 仏教というものは、古代インドでは哲学の流れをくんでおり、宗教ではあるけれども哲学的な側面を持っていると、私は思います。『諸行無常』に関しても、人を含む生きとし生けるものだけでなく、あらゆる物事が変化していると考えることは、重要だと思います。
 特に、日本人は、ロボット信仰というか、機械文明を永遠に変わらないものと考える傾向があるように、私には思われます。科学技術の発達によって、その可能性は日々、万能になりつつあるように思われるかもしれません。いずれは、機械があらゆる分野で人間の能力を超えて、人間の上に立てるような期待もしくはムードが感じられるかもしれません。
 しかし、いかなる機械であっても、『諸行無常』の考えを抜け出すことはできないのです。車にしても、テレビにしても、ロボットにしても、コンピュータにしても、農業機械にしても、あらゆる機械がメンテナンスを必要とし、部品が壊れたり故障して動かなくなれば、修理が必要になります。そして、修理できる限界を超えてしまえば、寿命が来たことになって廃棄されてしまいます。
 どんなに科学技術が発達しても、どんなに機械文明が続いたとしても、人間は永遠の真理(しんり)を手に入れたことにはならないということを、私たちは肝に銘じておく必要があると思うのです。逆に言えば、あらゆる物事には、限りある命があって、それらを大切に感じることが必要とされているのかもしれません。
 そうしたことを感じるきっかけを持つために、ごく普通に仏教徒であることを時に自覚したり意識するのは良いかもしれない、少なくとも悪くないなと私は思うのです。