あの万博記念硬貨は今どこに?

 先日私は、東京駅100周年記念Suicaを多くの人が買えたらいいと、軽はずみなことを言いました。そのことに対して、そんなことをしたらば、その商品に付加されているプレミアム感や稀少(きしょう)価値が減ってしまうのではないかと考える人が多くいらっしゃることでしょう。私は、その判断を完全に否定はしませんが、もう一つ別の考え方もあるのではないか、ということで以下に述べてみようと思いました。
 私自身は、何かを収集していた経験はあったかもしれませんが、特定の物の収集家になっていた経験はありません。ですから、この分野に関しては余りエライこともアツイ思いも言えませんし伝えられません。しかし、昔から、切手やコイン(硬貨)を集める趣味が多くの人たちにあることはよく知っています。熱狂的なマニアでなくても、記念切手とか記念コインだとかを欲しいと思う、庶民および大衆の気持ち(心理)を子供の頃から直接体感していたと言えます。
 具体的に申しましょう。高度経済成長とか所得倍増とかいう漠然としたものを、私は子供の頃に体感したことは一度もありません。けれども、珍しい『もの』を親からもらって、その『もの』の価値を体感したことはありました。例えば、それは1970年前後に誰もが手にできた、大阪万博開催の記念コインの100円玉でした。今のようなマネーカードが無かった当時、それは、本当に通常の100円硬貨と同じように使えました。それほど世間に大量に出回っていたにもかかわらず、ほとんどの人は使わずに大事に手元にとっておいたようです。私なんかも、子供でしたが、父親からもらったそれをおもちゃ箱なんかに入れて持っていました。そのうち、勉強机の引き出しの奥に忍ばせておいたと思います。
 そうして、お金として使わずにとっておけば、硬貨という金属性の『もの』なので、いつまでも無くならないと思っていました。消費しない摩耗しない『もの』ならば永遠に残ると、子供心に考えていたわけです。
 ところが、時間が過ぎていくにつれて、その万博記念硬貨はどこかに行ってしまいました。もしもそれを、どうしても物として残しておきたかったのならば、タイムカプセルに入れて地面に埋めておくべきだったと、今になって思います。私にとって、それは、私自身の記憶の中の『もの』として残ったわけです。その『もの』の稀少価値とかプレミアム感は、長い時間の中で自然と増やされていったわけです。
 本来、その商品や物の稀少価値とかプレミアム感というものは、それを作った人から付加された価値だけではなく、それを失(な)くさずに持っていたことによって「増えていくもの」であるべきだと思います。大量生産と大量消費が当たり前となった現世において、そんなふうに思うのは無理なのかもしれません。私たちの誰もが経済を重視するあまり、あらゆる物が流動的になっていないと不安だから、という意識があるせいかもしれません。だから、目先にある物の価値に、稀少価値やプレミアム感が無いと不安になるのかもしれません。
 これは私の勝手な提案ですが、あの大阪万博記念硬貨の100円玉を手にしたことのある人は、それがどこへ行ったのかを、今どこにあるのかを探してみるといいと思います。ひょっとして、今でも大切に持っている人がいるかもしれません。でも、ほとんどの人は、それを『もの』として記憶の中に埋もれさせていると思います。大量消費で様々なものが捨てられてきたこの世の中で、減ることのない『もの』そのものの稀少価値とかプレミアム感とかがどういうものであるかを、私たち一人一人が、この機会に考え直してみるのもいいかもしれません。それは、決してムダなことではないと思います。