J−POPへの無謀な挑戦!?

 前回の私のブログ記事で、最近のJ−POPの一つである"Song for the DATE "のMV(ミュージックビデオ)を見て、その英文字幕について述べました。Red FreesiasさんやJacquelyn and masaさんやpinoymanofriendさんの三者三様の翻訳を観て、ほぼ完璧な出来ではあるが、私だったらちょっと違う和文英訳になると、啖呵(たんか)を切ってしまいました。
 そこで、私は英語でも唄えるような歌詞にすることを意図して、和文英訳の作業に入ったのですが、今考えてみても『無謀』の一言に尽きると思いました。なぜ『無謀』だったのか、それは後で示すことにして、とりあえず私の和文英訳による歌詞の英語バージョンをお見せしましょう。


   "Song for the DATE (Song for the days)"


Sunshine in the sky
We looked up and felt it in those days


It's unbelievable
It's bright in the air
It gave all of us brightened days


I used to throw it outside
from my classroom's open window


A simple paper glider with a little dream of mine
I wondered how far it flew through the air


I've found out on the hem of my T-shirt
Your secret letters not to slip from my poor memory
I'm extremely thankful for them , thank you forever !


(*)
I remember,
Suddenly you began to hum a well-known song , you know
Someone else also sang to your humming tune
We had got a beautiful harmony and sympathy


I remember,
We believed in something good though nothing worked out
Though each of us often had a bad and hard time
We used to force a smile
dishonestly ...



I saw my schoolyard
I saw my schoolhouse's shadow


It looked like our youth
changing every munite
We were growing up there together


Sometimes we failed to go
Among us there arose difficulties


On my classroom desk , I found a cutting trace
and my sins against our relationship


Even though we couldn't get those meanings at all
I guess that we managed to get on very well
All of our school's memories seems to be
as good as gold !


I've recalled
your humming and singing to mind unexpectedly
Over again and once more , looking up at the sky
I've recalled and understood our youth of those days


One day , I
walked seeing sunset clouds and felt melancholy
In that time I deeply worried over myself
I found you by my side , I remember where you were



Day by day, the days we spent going to school
Step by step, it seems to prepare for a grown-up
It's lucky for us to spend a right and good time
during those days !


I wish to get a brave heart
to step more brilliantly and more ...
(and more, and more, and more, and more ...)


(* repeat)


I'm sure that
we really know our good time is not everlasting
however, we will be sure to remember this time


Forever and ever , we will keep singing a song
Let's sing so as long as we did it in those days


Song for the days
Song for today
Song forever ...



 まず、詩というものは、概して文法的な規則を意識的にはずして書かれるものです。それは、英語などの外国語の詩や唄の歌詞であっても、例外ではありません。当たり前の主語が省略されていたり、実際の出来事の順序があちこちへ飛んでいたり、もしくは意図的に抜かされていたりすることがあります。日本語の詩や歌詞を外国語に翻訳する際、直訳にしてもそれほど差し支えないことが多いのはそのためです。
 しかし、私の本音を言えば、読みにくいし、わかりにくい。前後の文脈から推測しにくい。もちろん原文をわざと読みにくく作ってある場合もあり、そんな場合は難解な内容になっても仕方がないと思います。けれども、たとえ翻訳された文章であっても、なるべくなら普通の言葉で書かれていることのほうが読み返すのにも楽だと思います。翻訳することで、故意に難解な文脈に変える必要はないと思うのです。
 そこで、私は今回の和文英訳に対して、またもや、いくつかの問題に突き当たってしまいました。それを事前にチェックしないで、「私だったら、ちょっと違う和文英訳になる」と啖呵(たんか)を切ってしまったわけです。一つは用語の問題、もう一つは言い回しの問題、そして、一番大きな問題は、全体の内容把握とその表現方法の問題です。
 具体的に例をあげて、それらを順番に片付けていきましょう。まず、『紙飛行機』という言葉をどう訳すか。"a paper airplane"で間違ってはいないと思います。しかし、私は"a simple paper glider"にしてみました。ハング・グライダーからの連想があったのかもしれません。空中を滑って飛んでゆくイメージは「簡単な紙のグライダー」の方がしっくりする気がしました。
 では、「すれ違い/けんかもしたね」というフレーズをどう訳すか。「すれ違う」はこの場合、"we passed each other"でも"we missed each other"でもありません。「意見が食い違う」の意味で、"we could not agree"と普通は訳します。同様に考えて、Red FreesiasさんやJacquelyn and masaさんの翻訳では、"disagreements"が使われています。私の場合は、"we go (together)"(一緒に進むこと)を"fail"(失敗)する、すなわち、「共に行動することをしくじる」というふうに軽く表現してみました。また、『けんか』はRed FreesiasさんやJacquelyn and masaさんの翻訳では"fights"で表現しています。私の場合は、"difficulties among us"(僕らのうちでの不和)と考えてみました。つまり、"difficulties"は「苦情・文句・不和・意見の不一致」などを意味しており、総じて「意見が合わずに口げんかをすること」の意味で使ってみました。このような措置を取ったのは、単に私が"quarrel"(口げんかする)という単語になじみが無かったためでした。しかも、それを"Among us there arose difficulties"というふうに(少し怪しげな)倒置法で表現してみました。
 次に、『青春の形』という文句(もしくはフレーズ)の和文英訳に触れてみましょう。それは決して"the shape of our youth"や"the form of our youth"ではありません。私の場合は、"We were growing up there together"と過去の情景をストレートに描いて、「僕らはそこ(学校)で一緒に子供から大人に成長していたんだ。」と具体的に述べてみました。
 『宝物』という言葉をどう訳すか。"treasure"で間違いではないと思います。しかし、私の場合は、"as goood as gold"と表現してみました。その"gold"の意味するところは、「貴重なもの、優れたもの、素晴しいもの、美しいもの、やさしさ、親切さ」などの抽象的なものです。もちろん、比喩であることに変わりありません。日本語の歌詞で使われている『宝物』も、「大切なもの」を意味する比喩と考えられます。そこで、その和文英訳ではそのような比喩の使い方に少しだけ私はこだわってみました。
 それでは、「机の上/傷跡と/後悔重ねた」というフレーズはどう訳すべきでしょうか。このフレーズは、まさに記憶の断片のようで、直訳するしかないのかもしれません。けれども、私は少しでもわかりやすい解釈を付け加えようと努力してみました。「クラスの机の上の傷跡」とは、教室で使う机にナイフなんかで傷をつけた跡だとイメージできると思います。と同時に、その傷跡は、クラスの仲間同士のすれ違いや喧嘩で傷ついた本人の気持ちを暗示しているものと思われます。そこで、私は"a cutting trace"という造語で「刃物なんかで鋭く切った傷跡」という意味の表現を使ってみました。また、"sin against ..."という言葉を使って、「〜に対して罰当たりなこと、もしくは、気が利かないこと」の意味で表現してみました。そのように罰当たりなことをしたことに本人自ら気づく("I find my sins")ことが、『後悔』という言葉を使った歌詞の意味に近いのではないかと私は考えました。
 道徳上もしくは宗教上の罪や罪悪を表す"sin"という言葉には、礼儀作法などに対する「違反・過失・反則」などの意味もあります。罰当たりなことをしたり、人の道に背(そむ)いたり、人前で間違ったことをしたりすることを表します。そうしたことに自ら気づいて、後悔するというわけです。そういえば、教室の机の上に刃物などで傷跡をつけるのも、同様に罰当たりないけないことの一つと思われます。ちょっと考え過ぎかもしれませんが、クラスの友との人間関係(つながり)に対しても、教室の机に対しても、悪かったなあと気づいたことが、「後悔かさねた」という歌詞の具体的な内容なのではないかと私は考えました。
 ここで、この曲の結びのフレーズと冒頭のタイトルについても触れておきます。この曲の結びでは、"Song for the DATE"のフレーズを三回繰り返しています。けれども、MVを見たところ、その三つの繰り返しおのおのの持つニュアンスが少し違うような気が私にはしました。過去→現在→未来というふうに、そのニュアンス(意味するところ)が移っているように感じられました。したがって、"the days"(過去の月日)→"today"(現在を表す今日)→"forever"(未来を表す永遠)と部分的に歌詞を明確に変化させてみました。
 また、この"Song for the DATE"という言い回しは、この曲のタイトルにも使われています。その"date"の文字が、すべて大文字になっています。これは、すべて大文字にすることによって強調を表し、特別な"date"(日付)であると表現しているのだと思われます。従って、"the DATE"は、特定される「特別な日付のついた一日」、もしくは、「特別な日付で区切られた(一日一日の)月日」全体を表していると考えられます。ただし、私はもともと本職はアーティストではないので、わかりやすさのために、そのタイトルのすぐ後に"(Song for the days)"のサブタイトルを付けさせていただきました。
 ところで、三番目の問題は、翻訳上では一番厄介な問題だと思いました。例えば、こんな経験をしたことはないでしょうか。余り人から読まれていない翻訳物の本では、校正して改訂版が出ることが少ないため、わかりにくい翻訳文に出会って困ることがあります。私などは、若い頃によくそのような憂き目を見たものです。
 かつて私は、文学部英文学科の学生であった時に、ある先生の授業で、アメリ現代文学の翻訳物の小説を読んで、原稿用紙に日本語でレポートを書く課題を、一月一冊の割合で課されていました。私は、その課題にあげられた翻訳物の小説を文庫本で買って読んでいたのですが、現代に近い作家の小説(つまり、散文)であればあるほど、それを読めば読むほど、日本語で書いてあることがよくわからなくなりました。小説に書かれていた物事の時系列がメチャメチャになっていたのです。
 でも、翻訳者さんに文句を言うのは、間違っているのかもしれない、と私は思いました。なぜならば、翻訳者さん自身は英文法をちゃんと勉強していて、原文を読んで解釈する時点では、小説の中の物事の時系列は、翻訳者さんの頭の中で整理されて、きちっと明確に理解されていたと考えられます。それを日本語で表現した途端に、原文の過去形と現在完了形と断定形の表現は文末の「た」で同一化してしまい、その時間的な物事の順序、すなわち時系列がバラバラになってしまったようなのです。
 以前の私のブログ記事で「日本語は超時空言語だ。」と茶化していましたが、思い返せば、私は若い頃にアメリカ文学の翻訳物の小説などでそのような苦い経験をいくつも味わってきていました。文章中で現在と過去を行ったり来たりしている場合に、そのどちらの時点で物事を見聞きして理解しているのかが読んでいる途中でわからなくなるのです。すると、前後の文脈からその内容を推測することができなくなり、翻訳された日本語で読んでいても、書かれていることの全てがいつも曖昧な感じになってしまいました。
 こうしたことを念頭において、今回のJ−POPの歌詞全体を考えてみましょう。日本人の感性からしても、文の内容の前後関係がはっきりわからない部分が多いのは、この曲においても事実だったと思います。従って、その和文英訳では、過去への回想はすべて過去形で表現してしまうという手段もありました。ただし、過去形ばかりだと、結局、事実の順番がわからなくなってしまいます。そこで、この唄の過去への回想には、二種類あると私は考えることにしました。一つは、単に過去を述べているフレーズで、もう一つは、過去に対して現在の本人の気持ちを乗せているフレーズでした。つまり、前者は、文の主節を過去形や過去進行形や過去完了形で表現すればよく、後者は、文の主節を現在形や現在進行形や現在完了形や未来形などで表現すればいいわけです。
 ずいぶん細かいことを言っているように思われるかもしれませんが、それを気にするかそうでないかで、翻訳された文章のわかりやすさに違いがあることは明らかであると思います。もっとも、そう思っているのは私だけかもしれません。その点が、今回の私の挑戦が無謀であったことへの、ある意味での一つの証拠であり反省であると言えましょう。
 歌詞全体の内容を把握して、何か良いことがあるのか。歌詞などというものは、曲の流れに呼応した言葉の流れに過ぎないのだから、無理してその内容全体を把握しようなんて、無意味じゃないか、という厳しい意見もあることと思われます。それに、若い人の作った唄の気持ちなど、その倍以上の年齢のアナタにわかるかい、という意見もごもっともだと思います。しかし、唄の歌詞というものの解釈が、聴き手一人一人に委ねられるとするならば、私が私なりに解釈し理解することに誰も異論はないはずです。余りにもはずれた解釈をしないかぎり、もしくは、他人に説明できないような解釈をしないかぎり、それは聴き手(受取り手)の自由だと思っています。
 そんな私でも、若い学生の頃に、ライバル心を抱いて、仲たがいして、口もきかなかった人がいました。『人』と表現したのは『友人』と思っていなかったからです。『友人』と言われるほどの扱いを、お互いにしていなかったためです。でも、今になってみると、仲たがいしないで、アイツの話を聞きたかったなあ、と思うことがあります。と言うのは、そのアイツには私の持っていなかった取柄(とりえ)があって、私はそれがどうしたら身に付くのかを知りたかったからです。けれども、私には見栄があって、そのために頑(かたく)なになって、意識的にアイツから遠ざかっていました。もしも、アイツと仲良くして話ができていたら、今の私よりももっと違う私に成長できたんじゃないかなあ、と今になって私は思います。それは、あたかもこの曲の中で、Tシャツの隅に書かれた言葉が思い出させてくれる、私の過去の記憶の一部であったわけです。ちょっと自由に解釈し過ぎなのかもしれませんが、私がこの曲を和文英訳する際にその内容を分析・整理していたら、そんなことを私はふと思い出しました。そこで、こんなふうに私の体験談を書いてみたわけです。
 そんなふうに曲全体から考えてみると、「Tシャツの隅に書かれた言葉」とはどんなものなのか、ということが私なりに想像できました。それは、「君がそっと密(ひそ)かにそこに書いておいてくれた言葉」であり、「簡単に見つからずに消されない言葉」もしくは「思い出が消えないように書かれた、つまり、それを思い出すきっかけを作ってくれた」言葉であったと、私には推測できました。ですから、「いっぱいのありがとう」というのは、そのことをその『君』にこの上なく感謝していると、そう解釈することができるわけです。
 ところで、ふいに君が口ずさんだ『あの歌』とは、どんな歌だったのでしょうか。その歌のハミングに誰かの声が重なるということは、仲間うちでよく知られている歌でなければならないはずです。全く知らない歌のハミングに合わせて、他人が歌えるわけがない、というのは当たり前のことです。従って、『あの歌』は"a well-known song"(よく知られていた歌=流行歌)のことであると私は思いました。
 ついでに、そのサビのフレーズの「同じメロディ/心つないだ」というフレーズを考えてみましょう。私の場合は、そこを直訳にはしませんでした。「みごとなハーモニーと共感を僕らは得るにいたった。」と過去完了形にして、過去の経験を表現するものとして考えてみました。日本語としては「同じメロディが僕らの心をつないだ。」で十分意味が通じると思います。ですから、そのような意味での英文への直訳も確かにアリだとは思います。しかし、私が考えた理屈では、次のようになります。二人以上の人間が一つのメロディーを歌うかハミングするのは、みごとなハーモニー(和声・調和)になるに違いない。かつ、そのことにより心がつながって一つになるということは、仲間うちで共感を得ることであるに違いない。その"sympathy"という言葉には「共感・共鳴・同感・同意・好意・好感」などの意味があります。というわけで、そのフレーズに対しても、私はあえて和文英訳での意訳を試みたというわけです。
 次に、「いつも夕焼け雲にたそがれて/胸の奥が痛くなって」のフレーズを考えてみましょう。この「いつも」はちょっと文脈の離れた「そんな時は傍にいたよね」にかかる感じだと思いました。「そんな時はいつでも僕のそばに君はいてくれたね。」という表現に近いと思いました。よって、あの頃の情景と状況を"One day, I ..."以下で記述して、君はそこにいてくれたね、と回想する(憶えている)という表現にしてみました。
 ところで、その「夕焼け雲にたそがれて」の「たそがれる」とはこの場合、どんなニュアンスになるでしょうか。『たそがれ』は、漢字だと『黄昏』と書きます。黄昏時と言えば、夕暮れ時のことです。それでは、「(人が)たそがれる」とは、どういうことでしょうか。それは、「人の姿の見分けのつかない『誰そ彼れ』時、つまり、夕方の薄暗い時」という元の意味から派生して、「人生のたそがれ」という比喩の表現があったり、「物憂げに見える人の姿」に対して比喩的に使われるようです。そんな友人を見つけて「おまえ、たそがれているんじゃねえよ。」と言ったことがある人もいると思います。私の場合は、「(夕暮れ時に夕焼け雲を見ていたら)心がふさいで」(feel melancholy)と付け加えてみました。すぐ次のフレーズで「胸の奥が痛くなって」と唄っているため、そのように補足説明をちょっとだけ付け加えてみました。
 「涙の数かぞえながら/下手な笑顔作ってたっけ」というフレーズも気になるところです。どう訳すべきか、直訳で伝わるのか、前後の文脈とどう合わせていくのか、気になるところだと思います。「僕らはそれぞれが、しばしばつらくて厳しい経験をしていたけれども、無理に笑顔を見せてごまかしていた。」と解釈してみました。「下手な笑顔を作る」は"put on a smile"や"pretend to smile"で「笑顔のふりをする」でもいいと思います。私の場合は"force a smile"にして無理に笑顔を作ることで、お互いに内心は困惑していた感じを出してみました。なお、"dishonestly"は、「不正直に」とか「心を偽って」とか「ごまかして」の意味です。
 この曲の終わり近くで「いつか終わりを告げるこのときを/僕らはきっと忘れない」というフレーズが出てきます。『いつか終わりを告げるこのとき』とは、一体どういう時のことを指しているのでしょうか。私はそれを"our good time"と表現してみました。『このとき』にもいつか終わりが訪れる、つまり、「このときが永遠でないということを、僕らはみんな本当に知っている。」という意味の表現にしてみました。
 以上、今回は、まるで学校の英語の授業のように、細かいことまで説明してしまいました。このように、あれこれ、つべこべと私は述べてしまいました。ですが、そのように和文英訳の作業をしている間に、私がいろんなことに出くわしたということが、わかっていただけたと思います。
 最近のJ−POPの歌詞だからといって、若い人たちが作った唄だからといって、そして、若い人たち向けの唄だからといって、いい大人の私たちは普段それなりに軽く見て、当たり前のように聴いているのかもしれません。それほど深い意味も考えず感じずに、若い人たちの気持ちなんて大したことないと、大人の私たちは常に思っていることでしょう。それはそれで、ある意味では正しく、常識的なことで当たり前のことなのでしょう。しかしながら、私は今回の和文英訳の作業を通じて、それだけが真実ではないことを知りました。
 pinoymanofriendさんの翻訳のように、ややおおまかに、わかりやすい英語に訳すのも、アイドルが唄うこの曲の雰囲気に合わせていて適切な感じがします。私の翻訳の場合は、全体の内容のわかりやすさに重点を置いたために、やや難しい言い回しや英単語を使ってしまったかもしれません。それでも、この曲の中に普段は眠っている『何か』に光を当てたいというのが、無謀な私の趣旨でした。おせっかいなことだったかもしれませんが、若い人の気持ちや創作精神というものが、中味の乏しいものでは決してないことを、そんな私は今回の英文和訳で証明したかったのかもしれません。