何かに使われるからといって、その物の価値が下がるわけではない

 今回は上のタイトルをテーマにして書いてみようと思います。以前紹介した『桃花片(とうかへん)』という物語の中で、楊(ヤン)は「おとうさん、もっといいものが焼いてみたくないの。」と生意気にも父親に言い出します。息子の楊は、父親が普段使うような焼き物ばかり作っていることをどうしても理解できませんでした。焼き物そのものを芸術作品として鑑賞できることこそが、本当に値打ちがあることではないのか、と一心に思っていました。彼は父親の実力を越えたいと志して、ついに名人の称号を受けるまでになりました。が、桃花片の水差しを見極めた時、それが彼の父親の作だとわかって、その実力を越えていなかったことを知ってしまうのです。生前その父が、息子の楊の未熟な点をわかっていたかのように言ったのが、この言葉でした。「なにかに使うからといって、値打ちはさがりはしないよ。」
 なぜそんなことを私が述べたかというと、日常生活で経験した次のようなことに何らかの意味があることを説明したかったからです。私の地元のホームセンターでは、毎日の営業終了時刻の15分か20分前に、中島みゆきさんの『時代』の楽器演奏がBGMとして流されます。なぜこの曲が選ばれたのか、その詳細の真実はわかりません。私が勝手に想像するに、風見鶏がマークのそのホームセンターでは、ニワトリが時を告げる「コケコッコー」のイメージにこの曲のイントロが似ていたからではないかと思われます。私は、中島みゆきさんの曲が特別に好きなわけではありません。でも、長年何回となくその曲を毎日のお店の営業終了時刻が間近になるたびに聴いていると、耳が慣れてきてその曲を聴くのが当たり前のことに思えてきます。そのBGMは、いやでも耳から入って頭の中に残ってしまいました。
 そうした経験は、誰でも一度は経験したことがあるものだと思います。例えば、学校の最終下校時刻を知らせるアナウンスとBGMを何回もよく聞いた経験が誰でもあると思います。私が聞いたことのある、そのBGMは『夕焼け小焼け』や『新世界』であったりしました。
 ところで、前回の記事で私は美空ひばりさんのことに言及しました。けれども、私より十歳以上の年上の年配の人からすれば、「お前なんかに美空ひばりの何がわかる?」とお叱りを受けるかもしれません。私はそれに対して弁明したいと思います。当然のことながら、私は美空ひばりさんのファンでもなければ、その楽曲を聴いて口ずさんでいた世代でもありません。世代的には、私の父母や祖父母が聴いて楽しんでいたと考えるのが妥当です。ですから、私は、彼らが話していたことの請け売りをしているようなものです。彼らは、美空ひばりさんの歌い方などの情報に関しては、音楽評論家にはかなわなかったものの、一般大衆的に知られている程度には詳しかったようです。
 また、私にはここ数年の日常的に経験していた次のようなことがありました。毎月一度か二度ほど土曜日か日曜日に地元の公民館のスピーカーから、お知らせが地区放送で流されます。その開始の合図として、美空ひばりさんの『柔(やわら)』が本人歌唱で一番だけ演奏されます。
勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと この胸の
奥に生きてる 柔の夢が 一生一度を 一生一度を 待っている
という感じで毎回その曲がスピーカーから流されます。地元のお年寄りは、この曲を合図にして公民館からのお知らせを毎月定期的に聞いているのです。私は、毎月一回か二回は、この美空ひばりさんの『柔』の一番をビニールハウスの中で作業をしながら聞いています。たとえ聴きたくなくても、自然と耳に入ってくるのです。
 そのおかげで、自ら進んで美空ひばりさんの曲をCDなどで聴かなくても、日常生活の中で耳にすることができるわけです。しかも、定期的に何度も実際に耳にしているので、美空ひばりさんの『柔』という曲の特徴とかが自然にわかってきます。ですから、そのことを前回のブログ記事の中に、何の苦も無く取り入れることができるというわけです。その意味では、私はありふれた日常生活の中で得をしていると思います。