私の本業 この仕事の援軍について考える

 私の地元では、先週の確定申告受付開始日(2月16日)の頃から、連日よい天気が続いています。それでも、まだ朝の屋外の温度は、氷点下になってものすごく寒くなります。日中も冷たい空気にさらされて、屋外での作業は体が冷えてしまいます。でも、日中の充分な陽射しのおかげで、ビニールハウス内は作業をすると汗が出るほど暖かになっています。この機会を逃してはいけないと思った私は、ビニールハウスの中での種の芽出しと苗を育てる作業を集中的に行うことにしました。特にここ数日間は、このような仕事ばかりに集中していました。
 植物を仕事で扱っているなどと言うと、さぞかしそういう仕事をしている人はのんびり屋さんのように思われるかもしれません。がしかし、現実はそんなものではありません。確かに、ビニールハウス内の作業は、強い風が吹いてビニールが飛ばされない限り、風の心配をする必要さえないかもしれません。けれども、ビニールハウス内の様々な環境、例えば最低温度と最高温度、空気と土壌の湿気もしくは乾燥の具合、日照時間と外の天候の変化、野ねずみやモグラやミミズなどの小動物の動向などなど、それらに気を配っていないと思わぬ失敗をすることがあります。(幸いにも、今年は今のところモグラや野ねずみに苗床を荒らされてはいません。)
 植物自体に目を向ければ、育苗のために決められたスケジュールがあります。例えば、来月(3月)の10日には、苗屋さんへの第1回目の出荷があります。それからさかのぼって、出荷できる形のポリポットに植え替えるのは20日前だとか、苗床に種を蒔くのは40日前だとかというふうに予定を決めます。去年や今年のように、春先の気温が平年より低いと苗が予定通りに育ってくれません。苗の生育状況にかかわらず、お客さんからの苗の注文は、例年通りに決まった時期に来るので待ってはくれません。
 もちろん、植物は、サラリーマンとは違って土日祝日がわかりません。私は、サラリーマンとは違う勤務形態で植物を世話しなければいけません。今日は日曜日だよ、とか、祝日だよと言ったって、苗だって、きゅうりだって、面倒を見ないで私が仕事を休んでいいというわけにはいきません。ひょっとすると、平日よりもそれらの世話で忙しい時だってあるのです。(ここ数日の私は、まさにそうでした。)
 育てる苗の本数も、半端ではありません。ここ数日でレタス苗とグリーンボール(球形の春キャベツ)の苗を合わせて三千本を超える本数を苗床プレートからポリポットに移植しました。寒さの影響でしょうか、まだ十分に根っこが出てきてくれないものもありました。まだ苗が小さくて、移植の時期が早いのかもしれません。しかし、本数が多いので急に陽気がよくなって一斉に苗が伸びだすと手に負えなくなります。苗床プレートに種を蒔いたまま放置しておくと、狭い場所で複数の苗が光を求めて競って伸びてしまいます。すると、もやしになってしまい、生育の悪い苗になってしまいます。そうならないように、できるだけ多くの苗を今のうちに個別のポリポットに植え替えるのです。
 苗屋さんとの取引では、ポリポットに植え替えた1本の苗が15円くらいで売れることになります。計算してみるとわかりますが、三千本の苗を作っても、レタス苗やグリーンボール苗などを売る場合はそれほど儲けにならないことがわかります。それでも、これは地元農家の田中さんから引き継いだ仕事であり、4月からのきゅうりの栽培が始まる前に行える大事な仕事なので、私としても毎年続けて行こうと考えています。
 毎年この時分から、気になっていることは労働力の不足です。私はなるべく地元の人を雇うようにしています。それほど儲けてはいないので、アルバイトで雇うのが精一杯なのですが、何から何まで雇った人にやってもらうわけにはいきません。そのようにすると、人件費がとてつもなくかかってしまい、買い手が苗を安く買えなくなってしまいます。それに、この道のベテランや熟練者に仕事を頼むのも、人件費が馬鹿にならず、思ったほど効果が上がりません。トマトやきゅうりやナスの接木苗を作るのならば、それだけの技術料を苗の価格にのせることができますが、レタスや春キャベツやブロッコリなどの苗は、価格が高いとお客さんが買ってくれません。できるだけ数多くの苗を用意するためには人手が必要ですが、苗一本一本が安く売れるためには低賃金労働がどうしても必要です。
 余談ですが、日本人が抱くアメリカ合衆国の大規模農場経営についてのイメージには、どう見てもおかしいところがあるように思える点があります。それを少しだけをここでは示しておきます。確かに、アメリカ合衆国の大規模農場経営は徹底した合理化が進められてきました。私はその『合理化』の内容を問題にしたいと思います。
 その合理化の内容とは、例えばこんな想像です。アメリカ合衆国の大規模農場経営は広大な土地を農地として所有していて、かなりの資金をつぎ込んで、巨大な機械や設備を少人数の人間が操作して、大量の農作物を生産している。だから、世界的に競争できるほど大量の農作物を安く売り込めるのである。実にグレート(偉大)である。というふうな想像です。
 しかし、「広大な土地で大量の農作物を作れば安く売れて生産者は儲かる。」という考え方が私にはどうしても合点がいきません。それは生産者の考え方ではないと思うからです。生産者にしてみれば、自ら作ったものを少しでも高く売りたいと普通は思うからです。この事業を進めるには、コストがかかります。その経営が大規模になればなるほど、それにかかる経営コストは増大します。いくら機械化したところで、機械にかかる購入代(もしくは、レンタル・リース代)・燃料代・修理代・メンテナンス代などのコストが減るどころか増えるのは明らかです。いくら広大な農地があっても、それにかかる様々なコストを跳ね返すだけの売上げが得られなければ、その経営は破綻してしまいます。
 だから、大量に生産されたものが安い価格で売れる、という見方は農業生産者の見方ではないと私は思います。それは、商人(あきんど)の見方だと私は思います。言ってみれば、たくさん仕入れてたくさん売れれば儲かるのは、消費者と生産者を仲介する商人なのです。私がもしも商人の立場ならば、大規模農業生産者にこう言って取り引きをします。「あなたたちが大量に生産したものを私がすべて売りさばいてあげるから、(生産コストをのせている)原価をもうちょっと下げてもらえないかい。」かくして、『なんちゃって商人』の私は大儲けできるという腹です。銀行から金融商品を買ってくれないかと、しきりに催促がくるような身分になれるかもしれません。
 今度は、私がもしも『なんちゃって大規模農業経営者』なれたらどうでしょうか。農業の作業のうちには、いくら合理化しようにもロボット(機械)ではまだまだできない仕事があります。しかし、広大な土地で農産物を大量生産すると、どうしてもそれに見合った大量の人手が短期的に必要になります。もしも『なんちゃっての私』だったら、外国からの移民を大量にひきうけて、彼らを低賃金で期間限定の季節労働者として働かせます。現場の農場には、敏腕の怖そうな元締めを何人か配置して、低賃金労働者を監視させてしっかり働かせます。
 私のおろかな妄想はここまでにしましょう。でも、農業をもとでにして世界に君臨したいのならば、これくらいのことを本当はやらなければいけないのではないかと思います。現在の私にはできないことであり、夢の夢の、そのまた夢の話です。でも、そんなことをして誰かに恨まれないとも限りません。そうならないだけ、今の私は幸せなのだと思うことにしています。
 つまらない脱線をしてしまいましたが、私の現実の世界の話に戻していきましょう。従来の日本の農業は家族労働に頼ってきました。しかし、ここ何十年は家族労働としての農業は少しずつ衰退して、日本の農業従事者のほとんどが高齢者になってしまいました。でも、私はそうした高齢者を、農業という仕事をあきらめなかった人たちではないかと見ています。つまり、日本の農業従事者が高齢であることがダメなのではないのです。
 若者が担い手になっていないではないか、と言う人がいらっしゃると思います。ならば、そう思う貴方が若い頃に何で農業の担い手にならなかったのでしょうか。私もそうでしたが、若い頃に農業の担い手になれなかった理由があったからです。私の家族や親戚は皆、若い頃の私に口をそろえてこう言いました。「農業なんてとんでもない。農業をやって生活なんてできないよ。世の中には、もっと良い職業がいっぱいあるじゃないか。そっちを捜しな。」若い私は、どうしても反論できませんでした。ですから、今の若い人たちに担い手になって欲しいと、私は言うことができません。
 人手不足のために苦労していることが、もしも家族が手伝ってくれないことが原因だとするならば、私はその因習をぶちこわそうと思いました。私は、何年も前に上田のハローワークにアルバイトの募集を出しました。その募集を見て、地元の老若男女いろんな人が来てくれました。しかし、定着する人はいませんでした。それぞれ各人の都合があったり、彼らの家族の都合があったりで、アルバイトをやめさせてくれないか、という相談を私は必ず受けました。そのたびに、私は彼らの申し出を承諾しました。なぜなら、彼らのそうした申し出を承諾することが、彼らをアルバイトとして雇う理由になっていたからです。アルバイトとして雇われる権利とそれを辞める自由が彼らにはあると、私は認めていました。私の義務は、彼らが働いた時間分のアルバイト代を月ごとに計算して支払うことでした。そして、今でもそれをきちっと計算してお金を支払うことが私の義務だと考えています。私は、彼らを雇って初めて、雇用した人に何でも頼りすぎないようにすることと、私自身が積極的にこの仕事にかかわらないと、何も仕事が進まないことを知りました。
 一度このアルバイトをやめても、どういうわけか知りませんが、一、二年してまた戻ってくる人もいます。そして、また時期が来るとやめる人もいるのですが、それは相手にもいろいろと事情があるのだから仕方がないと私は思うようになりました。つい最近も、三十代の主婦の人がまた働かしてくれないか、と来ました。その旦那さんと娘さんが空手をやっていて、私のアパートの近所の空手道場に通っているそうです。二年前までアルバイトで雇っていましたが、工務店を経営している旦那さんの手伝いが多くなったのでアルバイトを辞めたのですが、そちらが落ち着いたらしいようです。そこで、その主婦の人(年齢は、もうアラフォーですが)に都合の良い時間を決めて、アルバイトで来てもらうことにしました。ぼちぼち今年の作業を始めようとしている私にとっては、少しは援軍になってもらえそうです。
 私のところへアルバイトで来る人たちは皆、この仕事に関しては素人(しろうと)です。仕事でこき使って無理をさせてはいけない、と私は考えています。地元で家が近くであるとはいえ、自家用車で来て帰るので、無理な仕事で疲れさせてその行き来で交通事故を起こされたら大変です。毎日のアルバイトは、各人の都合の良い時間に来てもらって、短時間の労働時間にとどめてもらって、心身の余裕をもって帰宅してもらっています。また、なるべく休日をとってもらうようにもしています。急な用事ができて来れない場合は、その連絡さえしてくれれば、その用事を優先してかまわないと伝えています。また、私の側から無理に来て欲しいと催促はしないことにしています。無理に仕事をさせて、それがきっかけで事故やトラブルを起こしては、お互いに困ります。アルバイトの相手を雇う側の私としては、それくらい気を使っているということです。
 しかし、普通に仕事ができなかった人にだけは、さすがに慈善事業ではないので、遠慮させてもらっています。以前、二十代の若い娘さんをアルバイトで雇ったことがありますが、誰にでもできる仕事を何度もさぼって職場放棄しました。そういう人が、再び働きたい、と親を通じて言ってきても、「慈善事業をやっているわけではないので、雇ってお金を払うことはできません。」と私はきっぱり断っています。いくら若い担い手が欲しいといっても、このように若いゆえに甘やかされてきた人間にこの仕事を任せるわけにはいきません。若者をいじめるのはいけませんが、親や他人に甘やかされて労働意欲に問題がある人を雇っては、今の社会がおかしくなってしまうだけです。私は、その社会的責任を重く感じています。