『カサブランカ』が名作映画となり得た理由

 前回のブログ記事に引き続き映画『カサブランカ』について書きたいと思います。この映画は、名文句もしくは名セリフが多い映画としても有名です。それをいちいち説明することは、ここではしませんが、興味がある人は調べてみるといいと思います。
 その中の一つの名文句に"We'll always have Paris."(「俺も、君も、パリで一緒だった幸せをいつだって思い出せるさ。」)というダンディな男のセリフがあります。このセリフだけでは、何が何だかよくわかりません。けれども、この映画が名作と謳(うた)われることに一役買っているセリフの一つであったことに疑いはありません。イルザは、旦那と逃げて欲しいと言われて、リックと別れてしまうことに納得がいかなくて、"But what about of us ?"(「だけど、別れてしまう私達に何があると言うの?」)と彼に問いただします。すると、君の旦那には無いだろうけれど、君と俺にはパリでの幸せな思い出があるじゃないか、とリックは答えます。
 さらに、彼は"We didn't have. W'd lost it until you came to Casablanca. We got it back last night."(「君が来てくれて、その幸せをやっと取り戻せたよ。」)と付け加えます。その言葉につなげて、イルザも"When I said I would never leave you."(「だから、もう決して離れ離れにならないわ。」)と返します。すると、リックは"And you never will. But I have a job too. And where I'm going, you can't follow. What I've got to do ... you can't be any part of."(「その通りさ。でも、今の俺は…、君と一緒に生きてはいけないのさ。」)と、イルザに共感しつつも、彼女を突っぱねてしまいます。(私の日本語訳が、語数が合わないインチキ通訳みたいで申しわけありません。)サスペンス映画としての見方ですが、その時リックは、命がけでイルザとその旦那を守ろうとして、ドイツ人と刺し違える覚悟でいたようです。結局イルザは、旦那の前でその場をとり繕ったリックの言葉がウソであると感づいてはいたものの、彼の言う通りに旦那と飛行機に乗って泣く泣く去っていくしかありませんでした。
 リックとイルザが最後に別れるのではなく、一緒になってハッピーエンドになるという結末も考えられていたそうです。(ここから以降は、サスペンスのフィクションを抜きにして、ラブ・ロマンスのフィクションとしてこの映画を考えてみることにします。)この映画を実際に見てわかるとおり、そうしたハッピーエンドにはなりませんでした。この結末に納得がいかない、と考える人も少なくなかったようです。特に、情熱的な恋に憧れる女性の立場からすれば、なぜこの二人が離れ離れにならなければいけないのか。ダンディな男なんて、所詮てめえの都合で女性を遠ざけているだけで、責任逃れもはなはだしい。ひどい男性だ、女性として許せない。女性を何だと思っているのだ。といった意見があることは、もっともなことです。
 がしかし、時が過ぎてゆくにつれて、すなわち、人は年老いてゆくほど、この映画が良い映画と思えてくるようです。と言うのは、二人が恋の情熱に任せて一緒になっても、その先の未来が保障されるものではないことに、誰でも思い至るからです。もしかしたら、お互いの愛情が減ってしまうかもしれません。実際には、その愛情が変わらなくても、愛情がなくなってしまったと互いに誤解してしまいがちになります。綾小路きみまろさんの漫談ではありませんが、中高年になればなるほどその危険にさらされます。
 試しに、ロシアの文豪トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』の内容を考えてみると良いでしょう。私は、17歳の時にこの小説を読む機会がありました。そのいきさつについてはここでは説明しませんが、17歳の私が読んでも余りよくわからなかったというのが率直な感想でした。かなりの長編小説なので、読み通すのが困難な人のために内容を大まかに説明しましょう。
 アンナ・カレーニナは、お金持ちの役人(高官)と年の差婚をした美しい人妻でした。が、ヴロンスキーという勇ましい青年将校と情熱的な恋をして、不倫をしてしまいます。つまり、彼女は財産や社会的地位よりも恋愛を選んだのです。しかし、彼女はその愛人と一緒に暮すうちに、どんなに頑張っても上手く行かなくて、ついに走ってくる列車に身を投げてしまいます。
 作者のトルストイ自身の人間的な魅力はイマイチですが、小説家としては一流だと思います。この『アンナ・カレーニナ』という小説は、彼女を決して悪い女性としては描いていません。彼女が不幸なのは、まわりの環境とか人間関係が悪かったからであり、しかも、彼女のように不幸に陥らないためには人はこうあるべきだと対比する人物や社会環境まで描いています。人間にはこうした救いがあるのだから、決して彼女のキャラクターを軽蔑したり、否定したり、嫌悪したりしてはいけないのだ、と作者は読者に訴えています。彼女がたとえ不幸のためにどんなに身を落とそうとも、作者トルストイは決して彼女を見捨ててはいませんでした。この小説のタイトルを『アンナ・カレーニナ』にしたのも、そうした作者の思い入れがあったからだと考えられています。
 それはさておき、この『アンナ・カレーニナ』を人それぞれが読んで擬似体験してわかることは、どんなに情熱的な恋愛をしても、その情熱を維持していくことには限界があるということです。お互いが恋愛専門のロボット(機械)であったならば、その情熱の維持は永遠に可能かもしれません。否、ロボット(機械)だって壊れることがあります。ましてや、人間は、人間らしく生きるためには、無理がきかない精神構造になっていると言えます。情熱的な恋愛は、確かに魅力的かもしれませんが、それが高じて相手を信じられなくなったり憎むようになったり、相手に愛情を感じられなくなったりしては、本末転倒になりかねません。
 そういう意味で映画『カサブランカ』を考えてみれば、今までとは全く違う意味あいで『未来に希望の持てる結末』になっていると見ることができます。映画の中で離れ離れになってしまったリックとイルザそれぞれの相手への思いは、幸せだったパリの思い出という形で永遠に変わることがありません。この映画の観客一人一人の心の中でも、そのことは永遠に変わることがありません。従って、観客一人一人に最終的にそう思わせるところに、この映画が名作となり得た理由が感じとれます。