ファンの自由 自分が変われる自由

 実は、私は昔、菅野美穂さんのファンでした。『イグアナの娘』が面白くて毎週見ていました。
 『イグアナの娘』というテレビドラマは、最近見たドラマ『小公女セイラ』と同じ脚本家さんが書いたドラマです。主人公の女子高生が、自分の顔がイグアナに見えてしまうというコンプレックスから立ち直るまでのお話で、実はお母さんがイグアナであったという衝撃の結末には驚かされました。主人公の菅野美穂さんがイグアナっぽい顔の表情で、もしや、とは思いましたが、そこは子供にもわかりやすくイグアナのかぶり物が登場しました。そのイグアナのかぶり物が、無気味かつキュートで素敵でした。エルトン・ジョンのエンディングテーマに心が休まりました。遊園地でロケをした映像がどれも美しく、夜のメリーゴーランドの回る光景を、録画ビデオで何度も繰り返して観ていたものでした。
 このドラマを見て、菅野美穂さんのファンの一人になった私は、例の写真集も抵抗無く買ってしまいました。世間ではアイドルがなぜ?と大騒ぎしていましたが、イメージが壊れるとか、という意識は私にはありませんでした。私自身が、世間の感覚からズレていたのでしょう。実際その写真集を見ても、ムラムラしませんでした。自分と同じように、手足が2本ずつあるな、目が2つあって、口が1つ、指が5本ずつあるなとしか感じませんでした。
 当時の私は、菅野美穂さんの写真や記事などが載っている雑誌を集めて、それらを一人静かに見て読んで楽しんでいました。自分がファンであることを会社の友人に打ち明けるくらいで、他に目立ったことはしていませんでした。はたから見たら、雲の上の女優さんに片思いの恋をするオタクな若者にしか見えなかったことでしょう。今から考えてみると、その切ない気持ちがまた、自分だけの特別な生きがいになっていました。自分自身のそんな気持ちが、孤独な若者の心を支えてくれていたのだな、と思います。
 ところが、何のきっかけでそうなったのか憶えていないのですが、私は菅野美穂さんのファンではなくなっていました。今でもそうなのですが、テレビで菅野美穂さんの出演しているドラマやCMを見ても、好きでも嫌いでもないのです。菅野美穂さん自身のイメージは、昔とほとんど変わっていない良いイメージです。役も上手くなっているし、今のほうがずっと素敵です。
 ということは、私自身が変わってしまった。関心がなくなってしまった、ということなのです。誰かに言われたからでも、傷つけられたからでもなく、私としては自然に心が離れていったという感じです。でも、それで私も他人も誰も傷ついたわけではありません。後悔さえ、私自身にはありませんでした。
 つまり、こういうことだと思います。いつ、どこで、誰のファンになろうが、ファンでなくなろうが、それは個人の自由だと思います、相手に迷惑をかけなければ、そして、自分自身を無理な考えで束縛しなければ、誰かのファンになることは良いことと思ってよいのではないでしょうか。