『涙くんさよなら』のイングリッシュ・カバーに挑戦する

 今回は、いよいよ浜口庫之介さん作詞作曲の『涙くんさよなら』を英語でカバーすることに挑戦します。毎度のことながら、私の挑戦は、今回も無謀な挑戦となりました。「よせばいいのに…。恥をかくだけだよ。」という声もあるかもしれませんが、「ヘタでもともと、滑ってもともと」ですし、あの浜口庫之介さんの作られた曲を、恐れ多くも英訳して英語で歌えるようにしようというのですから、いろいろあっても、そこは開き直って楽しんでみようと私は考えています。
 私の場合、浜口庫之介さんというと、『バラが咲いた』や『ヤクルト・ジョアのCMテーマ曲』などを思い出します。その歌詞と曲が独特で、ちょっとその曲を聴いただけで、浜口庫之介さんの曲だとわかるような音楽の個性が感じられました。
 その歌詞は、日本人にとっては、自然で平易な日本語の言葉使いに感じられます。けれども、その歌詞を直訳して英作文などにすると、なにがなんだかよくわからないものになってしまいます。そうなってしまうのは、以下に述べるような問題点が歌詞の内容にあるからなのですが、それに加えて、英語では、文の時制の表現を明確にしないといけないこともその原因になっています。
 不思議なことに、日本人は、この『涙くんさよなら』という曲を聴いても、「変だ」とか「矛盾している」とか思いません。あるピンチに強い野球選手が「僕はプレッシャーと友だちなんだ」と言っても、私たちはそれほど矛盾を感じません。それと同様のことなのですが、よくよく考えてみると、「苦しみや悲しみと仲良し」だということは、変だし、矛盾することなのです。しかも、作者の浜口庫之介さんは、自らの苦しみや悲しみで流した涙を擬人化して、親しみを込めて『涙くん』と呼んでいます。そのニュアンスとかセンスが、直訳では外国人には伝わりにくいのではないか、と私は思いました。「昨日の敵は今日の友」とでも説明しないといけないのかなあ、などと余計なことまで気づかってしまいました。
 もちろん、この曲の作者(浜口庫之介さん)は、そんなふうには考えていなかったと思います。本当は、自らの流した涙が象徴する、苦しくて悲しい過去と決別することは、幸せなことなのです。けれども、そうした今の幸せを感じられるのは、苦しくて悲しい過去の不幸や不運や不遇があってのことなのだから、そうした過去と決別をしたいと本心は思っていても、それはそれで、そうした過去を大切に扱ってあげなきゃいけないんじゃないかなあ、というふうな感じなのだと思います。それが、『涙くん』という擬人化表現に託された思いに近いのではないかと考えられました。今回の私のイングリッシュ・カバーでは、その点に留意してみることにしました。



     "Goodbye My Tears"


(*)
Goodbye my sad tearful memory
Goodbye my sad passing days
I'll remember you someday


Looking back on those days with nostalgia ,
I know I passed every day lost in my grief and sorrow
so that I could hardly hold back my tears
for overcoming many hardships


However , I'm in love with an angel of a girl
She shows me what a woderful life we have in the world
She gives me a great pleasure and/or happiness
That's why I don't need much of tears a long while


(**)
Goodbye my sad tearful memory
Goodbye my sad passing days
I'll remember you someday



( * Repeat)


I've recalled when I was living to myself
and when I passed night and day lost in my grief and sorrow
so that I could hardly hold back my tears
for overcoming many difficulties


However , I'm sure that she's a nice lady
When I am in very low spirits , she can feel for me
She can change my tearful life for a happy one
That's why I don't need much of tears a long while


(** Repeat)


I miss my tears for now
I miss my tears for now ...



 今回の英語の歌詞について、説明を少々加えておきます。"I'll remember you someday"(いつかまた、あなたを思い出すことでしょう。)の'you'は、擬人化したものを指す代名詞で、もちろん'my tears'を指しています。そこは、オリジナルの日本語の歌詞と同じ表現手法になっています。ただし、私の場合は、その'you'の直接指すものが『涙くん』という言葉ではなくて、もう少し具体的なものにしています。ジョニー・ティロットソンさんの歌った曲の歌詞では、(オリジナルの日本語歌詞に敬意を表してか)'Mr. Tears'という同様な擬人化表現の直訳になっていましたが、英語にするとそれだけでは何となくわかりにくいような気が私にはしました。ここは「涙でいっぱいの悲しい私の思い出(もしくは記憶)」とか「過ぎて行った私の悲しい日々」とかいうふうな具体的な表現の方が、この曲を聴く人の心にグッと悲しみがこみあげてくるのではないかと私には思えました。
 「君は僕の友だちだ/この世はかなしいことだらけ/君無しではとても/生きて行けそうもない」という歌詞も、直訳するのは簡単ですが、その伝わるべき内容をよくよくイメージしてみると、ただの直訳では説明不足かつ物足りなさを感じます。しかも現在形で語られるその日本語の言い回しは、この曲中の主人公が過去に悲しい経験をしたことを踏まえて語られています。従って、「あの頃を懐かしく思い返すと、(あの頃は)毎日悲しみに暮れていたんだなあ、と(今の)私は知って理解している」「それゆえ(過去の私は)多くの困難を乗り切るためには、涙を流さずにはおれなかったんだなあ、と(今は)理解している」くらいの内容に英訳で表現してみました。
 オリジナルの歌詞では、二番の歌詞のそこのパートが同じ文言の繰り返しになっています。しかし、私の場合は「私が独りで暮していた頃、そして毎日悲しみに暮れていた頃を(今の)私は思い出した」「それゆえ(過去の私は)多くの困難を乗り切るためには、涙を流さずにはおれなかった、と(今は)思い出している」くらいの内容に変えて表現してみました。
 さらに細かいことを申しますと、「だけど、僕は恋をした」というオリジナルの歌詞は、日本語として理解するだけだったら、日本人なら誰でも間違いなくできます。けれども、英語に訳す場合には、若干の注意が必要です。過去形で訳すと、悲しい過去の時期との重なりが気になります。そのように単純に直訳していいのかと、疑う必要があります。よって、例えば以下のようにするべきでしょう。「だけど(つまり過去はそんなふうに悲しかったけれども)、今は天使のような若くてカワイイ女性を(好きになって、今もその状態が続いて)愛している」(However, I'm in love with an angel of a girl)というふうな内容と表現に変えて私なら意訳します。以前私は、「日本語は超時空言語である。」とふざけたようなことを書きましたが、単純に日本語を英語に直訳するだけでは、文中の時間(つまり、文の時制)の辻褄(つじつま)の合わない、おかしな(もしくは、理解しづらい)翻訳になることが多いと言えます。文の時制なんて、そんなことを気にしなくても、誰にもわかりゃしない、という意見も御座いましょうが、私は一応そこにこだわってみました。
 それ以降の翻訳表現は、それがどんな女性であって、それゆえ苦しさや悲しみでそれほど涙に暮れなくてもよくなったという『今』を書いてみました。その現在の幸せによって、しばらく涙に暮れなくてもよくなった、悲しい過去と決別して「しばらく(もしくは、当分)は涙を必要としない(自らの涙と会いそこなっている)」という感じの内容で英語でも表現してみました。
 オリジナルの日本語歌詞全体の内容は、それほど複雑ではなく、むしろシンプルであったと言えます。作者の浜口庫之介さんは、擬人化した自らの涙に『君』という二人称で語りかける手法で歌詞を表現しています。そのせいで、その歌詞の日本語表現がやや簡潔すぎたようです。だから、日本人の私たちがその意味を補って理解していた歌詞内容の一部分が、英語に訳した時に若干のわかりにくさを増幅させてしまった、ということなのだと思います。そこをスッキリさせることによって、よりハッキリとしたわかりやすい言葉の表現にできるわけです。それができただけでも、今回のイングリッシュ・カバーは、私にとって多少の価値があったと思われます。