住んでいる世界が違うとはどういうことか

 最初にことわっておきますが、私の場合、「住んでいる世界が違う」と思われる相手というのは、すごいお金持ちの場合とか、伝統芸能を守っている由緒ある家柄とか、皇室や昔貴族だった家柄とか、外国人の場合です。少なくとも私は、これらの条件を乗り越えることができないくらい、あまりにも普通の、平民であるということです。
 しかし、世の中とは不思議なもので、こうした違いを乗り越えてしまう人達も少なく無いようです。国際結婚する方もいらっしゃれば、歌舞伎役者と結婚する方もいらっしゃれば、皇室の家族と結婚する方もいらっしゃります。家柄が違う人と付き合うのは、大変なことだと私だったら思います。
 もしも、私が相手を好きになるとしたら、まず、相手の家庭の生活レベルを私の家庭のそれと比べると思います。また、相手のご両親がどんなふうかをチェックして、生活のレベルが余りに違うようであったら、最初から相手にはかかわらないと思います。
 私の母は、若い頃に実家を出て、東京で暮すようになりました。まさに「住んでいる世界が違う」場所へ自ら飛び込んでいったわけです。その頃は、都会に暮す人々のほとんどが地方出身の人たちであったわけです。そして、その母の精神は、結局私も受け継いでしまったわけです。私は、今の仕事をしたいがために、東京を捨てて「住んでいる世界が違う」地方へ飛び込んでいきました。こうしたことは、実は、珍しいことではなく、単身赴任のサラリーマンにもよくあることです。今まで住み慣れた故郷を捨てて、新しい場所(世界)で新しい生活を始めることは、都会的であり、モダンであり、サラリーマン的であると、私には思えるのです。
 私の祖父、私の父、そして、私と3人とも、違う職業もしくは職種についていたことも、サラリーマン的と言えます。お互い「世界が違う」と言いわけしてはいましたが、そのことが仲たがいの原因になるということはありませんでした。仕事を持っている相手の立場を尊重する、ということにかわりは無かったからです。
 それとは対照的に、例えば、付き合っていた相手と生活上のことで折り合いがつかず、「住んでいる世界が違う」と言いわけすることは、多分に農村的であり、ムラ(村)的であると、私には思えます。村とか家には、それぞれ守らなければならないしきたりがあり、それからはずれて生活することは許されません。別の村とか家には、別のしきたりがあり、まさに世界が違うのです。それぞれの会社に、それぞれの社風や社則があるのもそうです。それから外れる人は、アウトサイダーであり、村八分にされます。
 また、私の一周り年下の従妹のように、九州にお嫁に行って、一人子供を残して、若くして病気で亡くなってしてしまった人もいます。東京で生まれ育った彼女は、旦那さんの生れ故郷について行ったものの、旦那さんの実家の環境についていけなくて、無理がたたってしまったそうです。個人の生活環境をまわりの事情で安易に変えてはいけないということ、つまり、「住んでいる世界が違う」ということを甘く見てはいけないということの一例だと思います。人間が実際に毎日生活して生きていくためには、農村的、すなわち、ムラ(村)的な考えを全面的に否定することはできない、ということだと思います。
 「郷に入れば、郷に従え。」のことわざではありませんが、新しい環境に慣れつつも、その地域の風習のよいところは取り入れて、悪いところはなるべく真似しないということは、個人のレベルでもできることだと、私は思います。さらに現在では、地方が都会の真似をして、都市化しつつあります。現在私が住んでいるアパート周辺は振興住宅地であり、自治会はあるものの、農村のしがらみが全くありません。新参者が、近所に気兼ねせずに生活できる場所なので、敢えて言うならば、東京の環境と余り変わりないのかもしれません。世の中は、私たちが普段思っているよりも、流動的であり、グローバル化しているのかもしれません。