私のプロフィール 人間の本質に気づかされたテレビ番組

 昔々私は6歳年下の弟と、あるテレビ番組を見ていました。それは『帰ってきたウルトラマン』の33話『怪獣使いと少年』でした。その頃まだ小学校高学年であった私には特別な予備知識がありませんでした。沖縄問題とか部落差別とか朝鮮人差別とか、そういった難しい問題をよく知りませんでした。
 それどころか、当時は、同級生と一緒に朝鮮人部落の中にある空き地に行って、草野球をやって遊んでいました。そこの狭い長屋に住んでいた中学生のお兄ちゃんに野球を教わったりしていました。私の同級生のY君などは「朝鮮なめんなよ。」とか言って(あえて日本語でそう言って)ふざけていましたが、そこに朝鮮人の不良はいませんでした。ユニホームも無くて普段着で、バットもボールもグローブもみんなお互いに貸し合って草野球をやっていたのは、当時テレビで『アバッチ野球軍』というアニメを見ていた影響だったと思います。
 当時『帰ってきたウルトラマン』は、SF特撮ドラマとしては平均視聴率の高い番組の一つでした。MAT(モンスター・アタック・チーム)が怪獣退治に失敗すると、チームの解散を求められたりしました。が、ひとたび怪獣が出現すると、彼らに頼らざるおえなくなるその市民感情がとても面白かったと思います。それに、主人公の郷隊員役の団次朗さんが、何と言ってもかっこ良かったです。団次朗さんと言えば、『少年探偵団(BD7)』の怪人二十面相役もかっこ良くって、私は毎週テレビを観ていました。また、MATが出撃する際のテーマ音楽があって、ワンダバダしか言わない歌詞がまた面白かったです。そして、MATの戦闘シーンは、戦闘機を使わない場合は、銃を手にしたり、バツーカを肩に担いで、巨大怪獣を目がけて駆け足またはジープに乗って走っていくという、あまりに素朴なやり方であったため、その攻撃にさしもの巨大怪獣もひるんでしまうようなものでした。
 また、その『怪獣使いと少年』では、MAT隊長役の根上淳さんが何故か托鉢(たくはつ)僧みたいな変装をして郷隊員に個別のアドバイスをするという変なシーンがありました。その理由は、(私の人生では)ずっと後になってわかりました。これは一説に、失意の郷隊員に、地球の人間に失望しても、それでも彼らを救うべきである。彼らの人間としての業を知った上で、それを認めて、つまり、肯定して、彼らを見殺しにしてはいけない。というふうに説いている隊長の姿である、という解釈もあるそうです。
 この隊長は単独で戦闘機に乗って、巨大怪獣に立ち向かったこともありました。勇ましいとは思いましたが、万が一、隊長が怪獣にやられたら後に残された隊員たちはどうすればいいのでしょうか。などと、余計なことを考えていました。隊長の補充は簡単にできたようです。その根上淳さんの扮するMAT隊長も、実はこの番組内で二代目の隊長でした。
 上に述べたように余計な予備知識の無い私は、このように好き勝手なことを想像していました。ですから、その『怪獣使いと少年』では、私は従来のそうした社会問題とは切り離して、番組に見入っていたわけです。まず、メイツ星人がすごくかわいそうでした。地球に気象等の観測に来て(侵略のためかはわかりません。が、地球人だって他の天体に対して同じように調査に行くことはあります。)、汚れた空気で体がボロボロになってしまいます。そして、ついには地球の人間に命を奪われてしまいます。
 誰もが知るようにこの番組は、地球の人間を守るために異星人であるウルトラマンが、地球侵略を企てる宇宙人や、生活空間を破壊する巨大怪獣と戦うというストーリーで出来ていました。現実離れしたその物語設定に、視聴者はあっと驚き、そのように邪悪な宇宙人や怪獣が退治されて胸がスカッとするという番組なのでした。しかし、郷隊員は、彼が命を賭けて守ってきた地球人にメイツ星人が命を奪われてしまうのを目の前で見てしまいます。そのやり切れなさ、矛盾だらけの人間世界に、多くの視聴者はショックを受けたことでしょう。当時、小学生高学年であった私もショックを受けました。どうしてこんなことになってしまったんだろう。という疑問がその時に生まれました。当時ほとんどの大人は、それはどうにもならないことであり、こんなことをテレビで取り上げるべきではないし、考えても仕方の無いこととして片付けてしまったようでした。
 しかし、現在大人である私はこう思うのです。メイツ星人が命を奪われてしまった理由がわかったのです。しかも、怪獣を出現させる原因を作っておきながら怪獣退治をMATに押し付ける市民感情の身勝手さの正体が、決して不条理ではないこともよくわかりました。それは何かと申しますと、私たち一人一人の心にある『不安』と『怯(おび)え』がその原因なのです。そもそも、この『帰ってきたウルトラマン』に限らず、『ウルトラQ』からの一連のウルトラシリーズに登場する異星人や怪獣は、視聴者である現代人の『不安』や『怯え』を引き起こすものを目に見える形に具現化して、ブラウン管に登場させたものと考えられます。仏教彫刻的に言えば、それはえん魔さまや仁王さまのようなものです。一方、ウルトラマンなどは弥勒菩薩観音菩薩のようなものかもしれません。
 私は、それら一連のウルトラシリーズ(少なくとも、私がテレビで見ていた『ウルトラマンA(エース)』くらいまで)は、子供向けの番組とは言え、そうした現代人の抱きがちな『不安』や『怯え』をどの作品も表現していたのではないかと思えるのです。
 怪獣の突然の出現に逃げ惑う人々(一般市民)には、『不安』や『怯え』が必ずあります。また、彼らが理解できないものや手に負えないものに対して、『不安』や『怯え』を感じてしまうのも必然であると言えます。言い換えれば、『不安』や『怯え』を少しも感じたことの無い現代人はこの世に一人もいないということになります。それはまさに人間の本質そのものなのです。どうにもならない、仕方が無い、で片付けてしまうのはその意味で正しいことです。その結果彼らが引き起こしてしまう、むごい結果は未来に起こる出来事であり、誰もそれに気づく余裕など持ち合わせてはいません。
 そうした危機的状況でも、パニックに陥らずに静観できれば、きっと自らの『不安』や『怯え』に打ち勝って、むごたらしい結果にならないで済むということも、それらの番組では繰り返し訴えて表現されています。そうしたことがわからなくなると、例えば「怪獣が退治されてかわいそう。」という幼稚な考えが出てくるものと思われます。ブラウン管の中の怪獣は決して生身の動物ではありません。人間の心の中で作り出された『獅子』や『麒麟』や『龍』のような架空の動物に近いのではないかと私は思うのですが、昨今の幼児にそれを説明するのは難しいのかもしれません。例えば仮に、怪獣を退治しなければならなかったのは、君のお父さんやお母さんが毎日抱き続けている『不安』や『怯え』の気持ちを少しでも軽くするためだったんだよ、と説明しても、無駄な努力に終わってしまうと思われます。そうした親に保護され育てられている子供たちにとっては、そんなことを言われてもちんぷんかんぷんであるに違いありません。私だってメイツ星人をかわいそうに思っていたのですから、この件に関してはそうした子供たちの気持ちと五十歩百歩だったのかもしれません。

☆おまけの解説
 今回の本文中に登場した架空の動物について、簡単に説明しておきます。
獅子 … 獅子舞いでおなじみのあれです。動物園にいるライオンに似ていますが別物です。
麒麟 … キリンビールのラベルでおなじみのあれです。動物園にいるキリンとは別物です。
龍(または竜) … 辰年の動物としておなじみのあれです。ドラゴンとも言います。将棋の駒や凧に字で書いてあるのを見かけます。水族館にいるタツノオトシゴとは別物です。ブータンの国王が言っていた、人の心の中に棲むというあれです。動物園に行っても見ることは出来ません。